はりぼてタコのひとりごと

(旧)なめたらいかんぜよ!タコの毒吐きブログ

母のこと-3

昨日、1月10日は、母の命日である

何回目の命日なのか、数えていないから覚えていない

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母は、衝撃的なかたちで、この世を去った

 

1月10日、私は当時勤めていた東京の会社で、残業をしていた

たぶん8時過ぎだったろう、職場の広いフロアは、ほとんどひとけがなかった

私は、九州の支社に転勤になった以前の上司と電話で世間話をしていた

(彼も残業をしていた)

すると一緒に残業していた、同僚男性が私にメモをよこした

メモには「病院から電話です」とかなんとか書いてあった

取り次いでくれたのか、私が病院に掛けなおしたのか、記憶にない

電話の向こうで病院の人が

 

お母さんの心臓が止まりました。すぐ来てください

 

というようなことを言った

 

私は、電話を切った後、すぐさま更衣室に走り、制服の上にコートを着て、バッグをひっつかんで、エレベーターホールへ走った

会社の前で、タクシーをつかまえて(今思えば、よくすぐつかまった)

病院の名前を告げて「急いでください」と言ったと思う

その時代には、携帯電話なんて存在しなかったから

息をつめて、タクシーが病院に着くのを待った

 

病院に着いて見たのは、素っ裸にされて処置台に横たわる母

まだ救命処置の最中だったか、もう死後の処置だったのか

よく覚えていない

母の姿を見ながら、壁に寄りかかって、ぼうぜんとした

 

病院の1階にある公衆電話から、連絡すべき人に電話をかけた

妹は「えっ、今日、面会に行ったばかりだよ?!」

当時関西で仕事をしていた父は、絶句した

私の勤務先の部長は「えっ、お母さん、そんなに悪かったの?!」と驚いた

あとは、父が懇意にしている元部下のSさん、叔父、くらいだったと思う

 

病院に最初に着いたのは、叔父だったか、元部下のSさんだったか

叔父が「解剖しなくていいの?」というようなことを、つぶやくように私に尋ねた記憶がある

そんなこと、考えてもみなかった

(その時は、そんなことを考える余裕はとてもなかったが、後で考えれば、してもらうべきだったろう

あまりにも急な死だ、医療過誤があったかもしれない)

 

人事畑の長いSさんが、母の遺体を自宅に運ぶ手配を、手際よくすすめてくれたんだろう

私は、Sさんの車に同乗して自宅に戻った

南に面した畳の部屋に母を安置するために、そこにあったものを別の部屋に放り込んで

畳の部屋を急いで掃除した

母が家に戻り、叔父と私でひと晩、母に付き添った

妹もいたはずだが、記憶にない

 

翌朝、父が一番の飛行機で飛んできた

部屋のふすまを閉めて、ふたりだけにした

 

最初の弔問客は、父と同じ会社に勤め、長年家族ぐるみで行き来のあったご夫婦だった

定年退職後に戻った故郷の女川から、真っ先に駆けつけてくれた

まだ午前中だったと思う

どうやったらこんなに早く来られるのかと思うほど早かった

心から有難かった

 

青天のへきれきのごとき、母の急死に、日頃はあれほど母をコテンパンにいう父は、もぬけの殻のようになり

まったく役に立たなかった

私が実質上の喪主になるしかなかった

葬儀屋の担当者やSさんの助けを得て、私が母の葬儀の段取りを決めた

 

喪服なんて持ってなかったので、妹とふたり、雨の中を私が車を運転して

近くのそごうかどこかへ喪服を買いに行った

母が亡くなったばかりで、母の葬儀のためだというのに

「これが似合うかも」「こっちのほうはどう?」

なんて言いながら、喪服選びをしている自分たちが、なんだか不謹慎に感じた

 

母は、まだ59歳だった

 

 

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