はりぼてタコのひとりごと

(旧)なめたらいかんぜよ!タコの毒吐きブログ

母のこと -7 薬は要らなかった

精神病院って、ほんとうに必要なんだろうか?

母に限って言えば、母は精神病院に入院する必要はなかったと思う

 

精神病院または精神科の閉鎖病棟へ見舞いに行ったことがある人なんて、あんまりいないと思うけど、あそこは私にはものすごく怖いところだった

行くだけで、具合が悪くなりそうだった

軽い症状のひとが入院したら、間違いなく悪化するだろう

 

能面のように、真っ白で血の気のない無表情な顔で、じっと椅子に腰かける、中学生くらいの若い女の子がいた

なんで、こんなに若い子が、と思った

母のベッドがあった部屋には、少なくとも8人か10人の女性患者のベッドが並んでいて

窓際の一番奥のベッドで、横になった患者がマスターベーションしてるのがわかった

 

母は何度か入院したので、私は何度も見舞いに行った

食事の時間に行って、食べるのを見守ったり

お菓子やデザートか何かを買って行って、一緒に食べたかもしれない

薬のせいか、病気のせいか、母は多分あまり話さなかったと思う

 

精神科にかかって、投薬を受けると、その薬のせいで、ものすごく躁になったりした

そうなると、友達に電話をかけまくって、ペラペラペラペラ、長電話が止まらなくなった

薬によって、状態が変わる

まるで、薬の操り人形みたいに

 

母には薬は必要なかったと思う

母に必要だったのは、話ができる人、話を聞いてくれる人

母をほっとさせてくれる人

我慢せずに、やりたいことをやっていいんだよ、そんなにがんばらなくてもいいんだよと言ってくれるひと

だったんじゃないか

 

でも、いくら周りでいろいろ語り掛けても、本人の耳に入らないと、結局はなんにもならない

何も変わらない

 

母が何をそんなにかたくなに思い込んでいたのか

身体的には、健康なのに、魂が生きるのをあきらめてしまうほど

何をそんなに思い込んでいたのか

母をそこまで追い込んだ強い思い込みが何だったのか

 

母が亡くなって20年以上経った今も、私にはわからない

 

 

 

 

 

 

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続 阪神淡路大震災 

卓上コンロのガスボンベを載せたカートを引っ張りながら、JRの階段を上ったり下りたりして、乗り換え、乗り換え、川西の家に着いた

家で何をしたのか、今となってはぜんぜん覚えていないが、週末の一泊か二泊だから、たいしたことはできなかったはずだ

買い物に行って、鍋でも食べたんだと思う

 

はっきり覚えているのは、私が東京に帰る時だ

母とふたりで、最寄りの駅から能勢電鉄に乗り、阪急電車に乗り換える駅で降りて、駅近くの銭湯へ行った

震災以来、母は風呂に入っていなかったから、暖かい湯舟につかって、体や髪を洗えばさっぱりするだろうと思った

当時は、インターネットなんてまだなかったから、駅で降りて行き当たりばったりでみつけたんだろう

今あるようなスーパー銭湯じゃなくて、昔からあるような小さい地元の銭湯だった

でも、湯気が立ち上る、暖かいお風呂は、冷えた体にうれしかった

 

銭湯から出てきたら、雪がちらついていた

駅での別れ際に、「ありがとう」以外にも、母は何か私に言っただろうけど覚えていない

私を見る母の大きな瞳が、少し涙ぐんでいたような記憶がある

 

翌月の2月、私は前々から予定していた初めてのハワイ旅行に、会社の同期の子とふたりで行った

ハワイへ行くことを母に伝えると

「こんなに大勢の人が震災で苦労している時に、ハワイへ遊びに行くなんて」

と私に言った

 

「私がハワイ行きをキャンセルしたって、被災した人の助けにはならないから」

といって、私は予定通り旅に出た

 

母は、なにかにつけ、そういう人だった

 

 

 

 

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阪神淡路大震災

阪神淡路大震災が起こった時、すでに父は取締役をしていた水産会社から、関西のxx冷蔵という会社に左遷になって、母とふたり川西の新築一軒家に住んでいた

妹はすでに看護士になっていて、都心に部屋を借りて一人暮らししていたと思う

私は、市川の自宅マンションに住んで、日本橋まで通勤していた

 

1995年1月17日の朝、起きだして、まだぼーっとしながらリビングのテレビをつけた

画面に映る数字を見て、天気予報かと思って、もっとよく見ると

地震だった

しかも、関西

しかも、大きい!

 

多分、あわてて川西の家に電話したと思うが、その時はつながらならず

出社して、会社から掛けてやっとつながった記憶がある

家は、壁にわずかにヒビが入った程度で、大過なし

ただし、もちろん停電だ

 

勤めていた部署では、関西の顧客へも納品しているから、その日は一日中、仕事はてんやわんやだった

 

母は、その前からすでに躁鬱を発症していた

入院したのか、投薬だけだったのか、記憶にないけれど

震災後の非常事態は、母の精神状態にとっていいわけはなかった

停電に加えて、ガスもしばらくは使えず、よって風呂にも入れない

 

父は理屈だけは立派に述べ立てるが、いざ現実となるとからっきし実行力がなかった

状況を改善すべく、手を打つということをしない

 

そんな父の様子にしびれをきらした私は、関西地区では品切れになっているという

卓上コンロのガスボンベを数ダース買って、旅行用のカートに乗せ、土曜日の午後、川西へ向かった

飛行機で行こうと思ったが、ガスボンベは乗せられない、と言われ、新幹線にした

 

 

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自分がわからない

大人になってから、どうにも違和感を感じることがあった

 

例えば、友達と温泉に行く

服を脱いで、ロッカーにしまう

風呂場に行って、体を洗ったり、浴槽につかる

風呂から上がって、体を拭き、化粧品をつけたり、髪をドライヤーで乾かしたり

 

そういうなんてことない動きをする時に、ひとがどうするかがものすごく気になる

友達のすることにあわせている自分に気づく

友達はそれぞれ自分のやり方で、自分のペースで動いているのに

私には「自分のペース」というものがなかった

回りの動きが気になり、気持ちがざわざわして、落ち着かない

 

好きなものを選んでいい、というのが苦痛に感じることも多かった

どれが好きなのが、わからない

最初にこれかな、と思うものを疑うことが多かった

ひとりで洋服やバッグなどを選ぶのは、まだよかったが

誰かと一緒に食事に行った時など、他のひとが一緒の時に、自分の好きなモノを選ぼうとすると頭が真っ白になることがよくあった

ハッキリしないまま選んで、いざ食べる段になって、後悔することもよくあった

 

振り返れば、つきあった男性もそうだ

誰かが「好き」とか「素敵」と言うと、自分もすぐ好きになった

保証のような感じだ

このひとがいいな、と自分から思うのではなく

あの人がいいと思っているなら、いいに違いない、という感じだ

その結果、横取りしたこともある

もちろん、すぐダメになるんだけど

 

自分だけがいつも正しい父と、自分というものを持たないかのような母に、反抗しながら成長したのに

結局は、私自身、自分というものがわからなくなっていた

 

 

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父の血 その6

いつから父のことが嫌いになったのか、わからない

 

家の中で、正しいのは父ひとりだけだった

 

誕生日とかお出かけとか、楽しいはずの日は、必ずと言っていいほど

父の機嫌が悪くなることで、終わった

だから、楽しいはずの日も「最後はどうせパパの機嫌が悪くなるに違いない」と思うようになった

そして、予想通り、ほぼ毎回そうなった

楽しいはずの日を楽しみにしなくなった

どうせまた・・・と冷めた気持ちを持つようになった

 

外でご飯を食べれば、いつも母が同じものを注文する、といってバカにし

私が蕎麦屋で、うどんなんか注文しようものなら、「蕎麦屋でうどんなんて食うやつがあるかっ!」と頭ごなしに怒鳴られた

 

私が大人になり、父の日に妹とふたりで、父の日の花を注文したのに、どういう訳かその日に届かなかった

父は、花屋に電話して「注文通りに届かないとは、どういうことだっ!」とすごい剣幕で、電話の相手に怒鳴り散らした

 

私が年頃になってもなかなか嫁に行かないとなると

まずは、家族ぐるみでつきあっていた、その家の長男はどうかと言い出した

それがだめなら、また別の見合いの話を持ってきてが、乗り気でない私に向かって

「何が不満なんだ!」と文句をいう

 

私のことをいったい何だと思っていたんだろう?

大学に行かせ、一部上場の企業に勤めさせ、あとは嫁に行かせる

という「父の考える幸せ」という「路線」に私を乗せることは考えていても

「わたし」という娘が、どんな人間なのか、ということを、考えたことはあったんだろうか?

なかったように思う

 

会っても何も感じない人と結婚する気にはならなかったし

第一、尊敬どころか嫌っている父が持ってくる話だから、なおさら興味が持てなかった

 

そして何より、言い争いの絶えない家庭に育った私には、結婚に対するあこがれなんてこれっぽっちもなかった

 

ひとによっては、「だから自分は仲の良い家庭を」と考える人もいるようだが

私には、そんな意欲はまったくなかった

 

 

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根無し草

ずっと自分のことを「根無し草」だと感じていた

 

母とも父とも心のつながりが感じられず

近くにいてくれる祖母になつくと母を裏切るようで、ほんとうにはなつけなかった

妹が生まれても、10歳も年下だから、姉妹で遊ぶ、というよりも

私が小さな妹の面倒をみる、第二の母のような気持ちでいた

 

そんな家庭環境なのに、住む場所も3年ごとに変わる

住む家が変わり、自分の部屋も変わる

学校も変わり、先生も変わり、友達も変わる

その土地に、根っこをはやしている暇なんてなかった

仮に、根っこが生え始めたとしても・・・またすぐ引っこ抜かないといけない

 

仲良しの友達といえる同級生ができたのは

中学校2年生になって初めてだった

あのクラスは、あの時の同級生は、私にとっては奇跡のような存在だ

 

その後に引っ越して、半年足らず通った次の中学校はもちろん

都立高校でも、女子大でも仲良しの友達はできなかった

みんなほとんどうわべだけ

今でも連絡を取っている人は、誰もいない

 

会社員になって、15年働いても、会社以外でも仲良くする人は、ほとんどいなかった

 

今こうして、海外に住むようになり、短い帰省中に会いたいと思う人が

私の友達である

 

海外に住むようになり、父親の言動による影響から、物理的にも心理的にも距離を置けるようになって初めて

友達と呼べる人たちに、少しずつ出会うようになった

 

 

 

 

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何のために生きているのか

中三の秋から、やおら始めた受験勉強で、なんとか新設の都立高校に受かり

そこでは、成績もそこそこよく

大学はなんとかひとつ引っ掛かって、私立の女子大の英文科に進んだ

授業にはちゃんと出たし、勉強もしたけれど

なぜそれを勉強しているのか

将来何になりたいのか、何をしたいのか

何も見えなかった

 

たいして勉強もせず受験した教員採用試験には、なぜか受かったが(父の知り合いの関係だったかもしれない)、教師になる気持ちにはなれなかった

働いてみたい会社もなく、どんな仕事をしたいのかもわからないので、聞いたことのある会社や父親の勧める会社の面接を受け、これも受かったのは一か所だったと思う

そこに勤めた

 

漠然と、いずれは結婚するものと思っていたが

結婚式やウェディングドレスへの夢は、どういう訳か、まったくなかった

結婚に対するあこがれもなければ、子供が欲しいという気持ちもなかった

 

仕事は楽しかったし、アフターファイブの接待や上司との飲み会もしょっちゅうあった

バブルの時代で、何軒もハシゴしたあげくに、タクシー券で帰宅するのが午前様も当たり前

その時その時は、それでよかったが

 

ふと、何のために生きているのか、わからない・・・と思うことが時々あった

まるで、深い霧の中にいるような、感覚

 

日々、目の前にある、やらなければいけないことはやっていたが

将来を夢見るとか、何かを考えてわくわくする・・・ということがほとんどなかった

 

ある意味、死んだように生きている、感じだった

 

外見だけで判断すれば、そんな風には見えなかっただろう

よほど勘の鋭い人か、よく私を観察しているんでなければ

 

でも、中身は死んでいるのに近かったように思う

 

というか、本来の自分、というものが、死んでいた

あるいは、かなり病んで弱っていた、のかもしれない

 

 

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