シンデレラ・エクスプレス
いちばん身近な存在のはずの、母親とも父親とも、幼い頃から信頼関係が築けなかった
いつの頃からか、自分の周りに壁を作って、鎧兜を身に着けて、自分を守っていた
何かあれば、すぐ心のシャッターを下ろして、ひざを抱えて丸くなる
私の心は、どんどん固くなっていった
耕されなくなった土地のように
あまりにも硬くて、水も浸透せず、ただその上を流れていく
両親はもちろん、周囲のひとを意識的に遠ざける私には、周囲からの優しさや思いやりは、伝わってこなかった
あっても気づかなかった、気づけなかった
それなのに、私は異性に救いを求めようとしていた
初めて「好きになった」と思ったのは、広島の小学校の同級生
学級委員になるような頭のいい男の子だった
彼は、夢遊病だったそうで、夜中に歩き回っている時、線路に行ってしまい、列車に轢かれて、命は助かったが、片手を失った
中学校では、これまた片思いの男の子ができた
彼の家の近所まで行ってみたりした
バレンタインデーのチョコレートをあげたかもしれない
高校では、何人かの同級生と短い間つきあったけど、長続きはしなかった
家まで送ってもらったり、そんな程度
軟式テニス部の先輩で、長髪でちょっと不良っぽいひとがいて、なんとなく気になっていた
卒業して、大学生になってから、その先輩と付き合った
車を持っている人だったから、ドライブに行ったり、泊りがけで清里や西伊豆のペンションに行ったり、夜の多磨霊園の枝垂れ桜の下やショッピングセンターの屋外駐車場で、カーセックスした
セックスするためにつきあっていたような感じだった
その後、勤め始めてから、大学に在籍しててもいつ卒業するのか、どこに就職するのかわからないような先輩が嫌になって、別れ、何人かの人と付き合ったが、誰とも続かなかった
同じ会社の経理部にいた6歳年上の男性と、お互い惹かれ合っていたのはわかっていたが、お互い素直になれず、彼が他の部署にいた美人で有名な女性と結婚した後に、初めてつきあい始めた
いわゆる不倫だ
この人とは、体の相性がものすごくよくて、初めてセックスで感じる、ということを知った
あまりの気持ちのよさと心も体もつながった喜びに、涙があふれたのに、自分で驚いた
こんなに情熱的に人を愛したのは、後にも先にも、この時だけだ
今でも、ほんのたまにだが、この人とのセックスを思い出しながら、ひとりですることがあるほどだ
ただ、これも一目をはばかる不倫だったことが、さらに私たちを情熱的にさせたのかもしれない
私は、彼にとても嫌いなところがあった、性格的なことで
彼も同じだったようだ
しばらくして、関係は上手くゆかなくなり、私は一時仕事も手につかないほどに取り乱したが、結局は、別れた
不倫になった彼は少し別だったが、他はどの人も、好きになった というよりも
とにかく訳も分からず求めていた答えを、異性の中に見つけようとしていたように思う
ユーミンのシンデレラ・エクスプレスが流行っていた当時、私にはその歌詞の気持ちがまったく響いてこなくて、何も感じなかった
60も間近という年齢になって、その歌をまた聞き、やっとその気持ちが心にしみ込んできた
硬くなってしまった土に水がしみ込むようになるのに、こんなに長い時間がかかった
自分を大事にする その2
母は私に「自分を大事にするって、どういうことなのか、わからない」
と言ったが
私も、自分を大事にするって、どういうことなのか、わかってなかった
よって、当然のことながら、今考えれば、自分をまったく大切にしない行動をとった
一番、顕著なのが、そして我ながら痛ましいのは、処女を喪失した時だ
大学生の時だったけど、正確にいくつだったのか、覚えていない
二十歳すぎていたか、いないか・・・だったと思う
相手は、伊丹の中学校時代の友達で、彼もたまたま父親の転勤で、東京に暮らしていた
どうやって、再度つながったのか記憶にないが
中学時代、頭が良くてカッコイイと、女子に人気のある子だったが、私は他に片思いしている男子がいたし
当時も、再会してからも、その子のことは、特にすごく好きというわけではなかった
飲みに行くようになり、特につきあっているという感じでもなかったのに、彼の下宿先で、初めてのセックスをした
その時、私は生理中だった
今思えば、ひどい話だ
そんな時に、初めての体験をすることにした自分も
そんな時に、あえてしたその子も、だ
当時、大学の同級生と初めてのセックスの話題が出ていて
そのせいで、私の中に、乗り遅れまいとの対抗意識でもあったんだろうか
その子とは、その後、何度か会ったけれど、すぐ別れた
昔見た映画の中で
心が寂しいと、体でその寂しさを満たすようになる
というセリフがあった
私は、まさにそんな感じだった と思う
体を重ねることで、その時は、寂しいことを忘れたかもしれないが
当然ながら、心の隙間は、そんな一時しのぎで埋まるものではなかった
ブラックホール
最近になって、つくづく思う
母親が子供に与える影響は、大きい
ものすごく大きい
父親の比じゃない
世の中で、大きな仕事をする人は、ほぼ例外なく、母親を慕っている、愛している、感謝している
それを公言できる
ジェーン・グドオール女史も
RBG(ルースベイダーギンスバーグ)最高裁判事も
バラック・オバマ元大統領も
ミシェル・オバマも
カマラ・ハリスも
(バイデンもそうかもしれないけど、事故死した最初の奥さんと娘、若くして亡くなった長男のことが表にでるので、お母さんのことはあまり知らない)
違う言い方をすれば、母親からのポジティブなサポートなくしては、こういう人たちは存在しなかった、だろうと思う
そりゃぁ、この人たちだって、いろいろあったろう母親とも
でも、それは、人の成長過程にあって当たり前な、健康的なものだったんじゃないか
と想像するだけだが
機能不全な親のもと、機能不全な家庭に育つのは、これとは違う
親との、特に母親との関係が機能不全だと、そこから抜け出して、自分を取り戻すのに果てしない時間と精神力を要する
お金も時間も精神力も体力も、ものすごく消耗する
そのことに精いっぱい、手一杯だ
途中で、あきらめるひともいる
美しくても、ハンサムでも、頭が良くても、人から好かれても、そんなことは助けにならない
マリリン・モンローを見よ
三浦春馬を見よ
外からやってくる人気やファンは、心の闇を救えない
自分の心の中に、深い闇が巣食っているうちは
20代の後半に深く愛し合った恋人から、こう言われたことがある
「○○には、どこか深い闇みたいなものがある」
彼には、私がどんな家庭で育ったかは、話していなかったはずだ
が、感じたんだね、私の心に闇があることを
彼が言った通り、私の心には、深い深いブラックホール があった
でも、私は、その時はまだ、それをはっきりとは自覚できていなかった
鮨の順番
戦争中に少年時代を過ごし、飛行機乗りになりたいと思い、食べるものも満足にないなか育った父は、食べることが好きだった
戦争中、カボチャばかり食べさせられたから、もうカボチャはいらんと言っていた
長崎、広島、伊丹と引っ越した先々で、お客があると当地の名物やら美味しいものを食べに行った
「旨いものを食わせる」ことが、父にとっての最大のもてなしであり、愛情表現だったと思う
だが、大金をはたいて、喜ばせたいはずの相手の気持ちには、いっさいおかまいなし、というよりも、人の気持ちというものが、恐ろしいほどにわからない男だった
海外在住も長くなった頃、里帰りした時に「鮨を食いに行こう」という父と一緒に、気はすすまないながらも、築地のすしざんまいへ行った
カウンター席に並んで座り、運ばれてきた生ビールのジョッキを前に
「好きなものを頼めよ」と私に言い、父は慣れた様子でネタを板前さんに注文した
カウンターで鮨なんて、めったに行かない私は、どれから注文すればいいか迷いつつ
ちょっと緊張しながら、いくつか頼んだ
話もほとんどせず、注文しながら食べるうち、父が
「そんな順番で食うもんじゃない」ときた
「え?どんな順番で食べるのよ?」と聞き返すと
「そんなことは、俺に聞くもんじゃないっ」
「人が食うのをみてりゃわかるだろうっ」と私を叱りつける
カチーンと来たし、ムカついた
鮨屋のカウンターに座って、どういう順番でネタを注文するのかなんて、誰も教えてくれたことないし、だいたいそんなにしょっちゅうカウンターで鮨を食べることなんてない!
なんで、こんな嫌みなことを言われながら、この父親と並んで鮨をたべなきゃいけないのか、わからなかった
すでに、鮨の味なんてわからないほど、腹が立っていた
こんなこと言われながらご馳走してもらったって、美味しくもなければ、有難くもない
こんなんなら、自分で払って美味しく食べたほうがよっぽどましだ
父のおごりでふたりで鮨を食べに来るのは、これで最後にしようと決めた
私が怒りに震えるようにして、先に立って店を出ると
いつものように、父は私の機嫌を直そうとしてくる
「コーヒーを飲んでいこう」
私は行きたくなかった、が、言い始めるとこの男は後へは引きさがらない
下手をすると、公衆の面前で大声で叫びだしかねない人間だ
そんなのに巻き込まれたくない
氷のように固い表情のまま、ほとんど何も話さず、コーヒーを飲み、別れた
喫茶店で黙りこくった私に向かって、父は言った
「お前と俺は、ほんとうに合わないな」
合うわけがないと思った
自分を大事にする
「自分を大事にするって、どういうことなのか、わからない」
これはある日、母が私に言ったことだ
3人の機能不全な大人に囲まれて、機能不全な家庭に育った私は、いつも答えを探し続けていた
自分の「問い」がなんなのかわからないまま、「答え」を探していた
加藤諦三の「愛されなかった時どう生きるか」など、自己啓発の本を読み漁った
「アメリカン・インディアンの教え」みたいな本も読んだ
でも、欲しい答えは見つからなかった
見つかったような気がしても、また次の壁にぶち当たった
母はそういう本は読んでいないようだった
「どうしてこういう本を読んでみないの?」と母に言ったこともある
本を読む代わりに、宗教に片足を突っ込んだこともあるようだった
クリスチャンの学校に通った割には、キリスト教には興味がないみたいだった
女子高時代、ソフトボールのピッチャーだった母は、スポーツが好きで得意だった
いっとき、父がゴルフクラブのセットを母に買ってやり、打ちっぱなしやゴルフ教室に通っていた時もあったらしい
が、ゴルフが上達し、嬉々としてのめりこんでゆく妻を、ほほえましく見守ることができるほど、父は鷹揚ではなかった
ゴルフが上手い母とそれほどでもない父が、一緒にコースを回れるようだったら
父は釣りや囲碁、母はゴルフや音楽鑑賞、などそれぞれ別々の趣味を持てるようだったら
父の顔色を伺うのではなく、母がもっとはっきりとモノをいう人であったら
ふたりの人生は、まったく違ったものになっただろう
当時の私は、なんとかうまく行くように、あれこれ考えたり、提案したりした
でも、本人がほんとうに望まない限り、そういう変化は訪れない
水飲み場に馬を引っ張って行くことはできても、水を飲むかどうかは馬次第だ
本人がその気にならない限り、どんなに回りがあれこれ心配しても無駄だ
と、ずいぶん経ってから、気づいた
おばあちゃんっ子
私は、子供の頃から、自分はおばあちゃんっ子だと思っていた
ものごころついた頃から、そばにいたのは母ではなく、もっぱら祖母
幼稚園にあがる前に、朝目覚めた時に横に座っていたのは、祖母
私をおんぶして子守りしてくれたのも、祖母
寝る前にお話しをしてくれたのも、祖母
梅酒でかき氷を作ってくれたのも、祖母
手編みのセーターを作ってくれたり、ほどいて編みなおしてくれたのも、祖母
ゆかたを縫ってくれたのも、祖母
新聞に入ってきたチラシを見ながら「このページのどの服が好き?」って遊んだもの、祖母
エビオスや養命酒を飲んだり、せんぶりという薬草から煎じた苦いお茶を飲む姿を見たのも、祖母
門限に遅れて帰ってきた私のために、玄関の鍵を開けてくれたのも、祖母
だから、私は自分をおばあちゃんっ子だと思ってきた
よその人にも「おばあちゃんっ子だから、優しいのよね」なんて言われたこともある
もう50代になってから、父にそんな話をしたら
「おばあちゃんっ子だったのは、△△子(妹)のほうだろう」
と当たり前のように言われて、頭をガーンと殴られたような気がした
えっ?それじゃあ、私は誰の子なのよ?
ママっ子でも、パパっ子でもないよ
私は誰の子でもない、と言われたような気がして、絶望的に悲しくなった
父の血 その5
父は、人間として、男として、未熟だったんだろう
当然、夫としても父親としても
社会的な立場から見れば、ちゃんと機能している大人と認識されていただろうが
家庭においては、機能不全の自分勝手な人間だった
そして、今思えば、酒乱だったんだろう
戦後復興期の景気のよい時代に、その会社では珍しい東大卒として、管理畑を歩いてきた父は、ワーカーホリックにはほど遠く、たまに接待や飲み会があったくらいで
平日もけっこう家で夕飯の席についていた印象がある
そして、飲み始め、話し始めると、それが批評や批判、非難になることがしばしば
私たち家族や親戚に対しての時もあれば、社会一般についての時もあったろう
そんな話につきあうんだから、私だっていっぱしの評論家になった
だが、あまりにも嫌な話がつづけば、自分に対してならもちろん、別の人のことだって、黙って聞き続けるには限界というものがある
うんざりした私は、席を立ち、自分の部屋に戻る
そうすると、父が追ってきて、私が鍵をかけていればそのドアをドンドン叩いて、出てくるように命令する
「まあ、座れよ」
「ほら、飲めよ」
酔った父は、私にも酒をすすめてくる
座りたくないから、自分の部屋に逃げ込んだのに、無理やり座らされた私は
仏頂面で視線は前にぼーっと投げたまま、くだくだ続く父の話を、右から左へ流した
こんなことは日常茶飯事だった
さらに嫌だったのは、翌朝だ
出勤前の身支度を済ませた父が、前夜、遅くまで父のくだ話につき合わされて、まだ寝ている私の部屋に来て、ベッドの横にたつ
「おい、昨夜はすまなかったな」
そういって、私に「和解の握手」を求めて、手を差し出してくる
初めての時は、それでもよかったかもしれない
が、何度もそんなことが続くと、そんな握手、したくもなかった
だが、しないと許してくれない
「そんなこと言うなよ」
「いつまでも根に持つんじゃない」
私は、この怒りをどこへ持っていけばいいのか、わからなかった
行き場のないその感情を、自分のなかにぐーっと押し込めた
飲み会で夜遅くなり、乗り継ぎ電車の最終便に間に合わないと、父から家に電話がかかってくる
私はもう眠っているのに、母が私を起こしに来て「パパが○○駅まで迎えに来てって言ってる」
私が自分の飲み会で、終電を逃したら、1時間寒空の下、駅でタクシーを待つのに
不公平だ、と思った