「自分を大事にするって、どういうことなのか、わからない」
これはある日、母が私に言ったことだ
3人の機能不全な大人に囲まれて、機能不全な家庭に育った私は、いつも答えを探し続けていた
自分の「問い」がなんなのかわからないまま、「答え」を探していた
加藤諦三の「愛されなかった時どう生きるか」など、自己啓発の本を読み漁った
「アメリカン・インディアンの教え」みたいな本も読んだ
でも、欲しい答えは見つからなかった
見つかったような気がしても、また次の壁にぶち当たった
母はそういう本は読んでいないようだった
「どうしてこういう本を読んでみないの?」と母に言ったこともある
本を読む代わりに、宗教に片足を突っ込んだこともあるようだった
クリスチャンの学校に通った割には、キリスト教には興味がないみたいだった
女子高時代、ソフトボールのピッチャーだった母は、スポーツが好きで得意だった
いっとき、父がゴルフクラブのセットを母に買ってやり、打ちっぱなしやゴルフ教室に通っていた時もあったらしい
が、ゴルフが上達し、嬉々としてのめりこんでゆく妻を、ほほえましく見守ることができるほど、父は鷹揚ではなかった
ゴルフが上手い母とそれほどでもない父が、一緒にコースを回れるようだったら
父は釣りや囲碁、母はゴルフや音楽鑑賞、などそれぞれ別々の趣味を持てるようだったら
父の顔色を伺うのではなく、母がもっとはっきりとモノをいう人であったら
ふたりの人生は、まったく違ったものになっただろう
当時の私は、なんとかうまく行くように、あれこれ考えたり、提案したりした
でも、本人がほんとうに望まない限り、そういう変化は訪れない
水飲み場に馬を引っ張って行くことはできても、水を飲むかどうかは馬次第だ
本人がその気にならない限り、どんなに回りがあれこれ心配しても無駄だ
と、ずいぶん経ってから、気づいた