阪神淡路大震災
阪神淡路大震災が起こった時、すでに父は取締役をしていた水産会社から、関西のxx冷蔵という会社に左遷になって、母とふたり川西の新築一軒家に住んでいた
妹はすでに看護士になっていて、都心に部屋を借りて一人暮らししていたと思う
私は、市川の自宅マンションに住んで、日本橋まで通勤していた
1995年1月17日の朝、起きだして、まだぼーっとしながらリビングのテレビをつけた
画面に映る数字を見て、天気予報かと思って、もっとよく見ると
地震だった
しかも、関西
しかも、大きい!
多分、あわてて川西の家に電話したと思うが、その時はつながらならず
出社して、会社から掛けてやっとつながった記憶がある
家は、壁にわずかにヒビが入った程度で、大過なし
ただし、もちろん停電だ
勤めていた部署では、関西の顧客へも納品しているから、その日は一日中、仕事はてんやわんやだった
母は、その前からすでに躁鬱を発症していた
入院したのか、投薬だけだったのか、記憶にないけれど
震災後の非常事態は、母の精神状態にとっていいわけはなかった
停電に加えて、ガスもしばらくは使えず、よって風呂にも入れない
父は理屈だけは立派に述べ立てるが、いざ現実となるとからっきし実行力がなかった
状況を改善すべく、手を打つということをしない
そんな父の様子にしびれをきらした私は、関西地区では品切れになっているという
卓上コンロのガスボンベを数ダース買って、旅行用のカートに乗せ、土曜日の午後、川西へ向かった
飛行機で行こうと思ったが、ガスボンベは乗せられない、と言われ、新幹線にした