父の血 その5
父は、人間として、男として、未熟だったんだろう
当然、夫としても父親としても
社会的な立場から見れば、ちゃんと機能している大人と認識されていただろうが
家庭においては、機能不全の自分勝手な人間だった
そして、今思えば、酒乱だったんだろう
戦後復興期の景気のよい時代に、その会社では珍しい東大卒として、管理畑を歩いてきた父は、ワーカーホリックにはほど遠く、たまに接待や飲み会があったくらいで
平日もけっこう家で夕飯の席についていた印象がある
そして、飲み始め、話し始めると、それが批評や批判、非難になることがしばしば
私たち家族や親戚に対しての時もあれば、社会一般についての時もあったろう
そんな話につきあうんだから、私だっていっぱしの評論家になった
だが、あまりにも嫌な話がつづけば、自分に対してならもちろん、別の人のことだって、黙って聞き続けるには限界というものがある
うんざりした私は、席を立ち、自分の部屋に戻る
そうすると、父が追ってきて、私が鍵をかけていればそのドアをドンドン叩いて、出てくるように命令する
「まあ、座れよ」
「ほら、飲めよ」
酔った父は、私にも酒をすすめてくる
座りたくないから、自分の部屋に逃げ込んだのに、無理やり座らされた私は
仏頂面で視線は前にぼーっと投げたまま、くだくだ続く父の話を、右から左へ流した
こんなことは日常茶飯事だった
さらに嫌だったのは、翌朝だ
出勤前の身支度を済ませた父が、前夜、遅くまで父のくだ話につき合わされて、まだ寝ている私の部屋に来て、ベッドの横にたつ
「おい、昨夜はすまなかったな」
そういって、私に「和解の握手」を求めて、手を差し出してくる
初めての時は、それでもよかったかもしれない
が、何度もそんなことが続くと、そんな握手、したくもなかった
だが、しないと許してくれない
「そんなこと言うなよ」
「いつまでも根に持つんじゃない」
私は、この怒りをどこへ持っていけばいいのか、わからなかった
行き場のないその感情を、自分のなかにぐーっと押し込めた
飲み会で夜遅くなり、乗り継ぎ電車の最終便に間に合わないと、父から家に電話がかかってくる
私はもう眠っているのに、母が私を起こしに来て「パパが○○駅まで迎えに来てって言ってる」
私が自分の飲み会で、終電を逃したら、1時間寒空の下、駅でタクシーを待つのに
不公平だ、と思った
父の血 その4
戦時中のモノがない、食べ物もない時代に、多感であろう少年時代を過ごした父は
モノを買う時はよいものを
食べる物は、美味しいものを求めた
戦後の高度成長期で、経済的にゆとりもあったんだろう、少々値が張っても、いとわなかった
品物を選ぶセンスも悪くなかった、どちらかといえばよかった
市川のマンションの木製のダイニングテーブルとイスのセット
川西の家に引っ越した時に買った、ブルー系のペルシャ絨毯
私に買ってくれた薄い長方形のフレームに、薄っすらパープルがかったワニ皮のベルトがついたおしゃれな腕時計
就職祝いだったか
私の目からみて、どれもセンスがよかった
でも、贈り物にまつわる思い出には、今でも思い出すと嫌な気持ちになるものがある
東京で勤めていた私は、出勤していた平日に、父に呼び出されて銀座へ行った
昼休みだったのか
銀座の和光で、ハンドバッグを選ぶためだ
誰の?
高知に住む(あるいはその時、大学のため上京していた?)私より幾つか若い従妹のためだ
地下鉄二駅とはいえ、制服のままわざわざ会社から抜けてきて、高級なハンドバッグを選ぶのを手伝った私には、父は何も買ってくれなかった
あの有名な和光のハンドバッグを従妹には買い与えるのに、私には買ってくれない
お前にはそんな価値はない、と言われているような気がした
次は、ティファニーのシルバーのネックレス
従妹の大学卒業祝いか、何かだったんだろう
当時、東京の虎ノ門病院に難病の治療で入院していたおば(従妹の母)を見舞った時に
母が、従妹に渡していた記憶がある
ティファニーのネックレスに、喜ぶ従妹
私だって欲しいのに
どうして私には買ってくれないんだ、と心の中で恨んだが、親には言わなかった
極めつけは、当時人気だったひと粒ダイヤのネックレス
両親が川西に住んでいる時だったか・・・
父が「買ってやる」というから
母と3人でデパートへ行った
外商に日頃世話になっている担当者がいたらしい
きらきらかがやくダイヤモンドがならぶショーケース
珍しくワクワクした
小粒だけどキラッと輝くカットのものが気に入って、それが欲しいと言った
なのに、そのダイヤは質が劣るとか、なんとかいろいろ言われ
結局、外商の人と父が勧めるものを、買うことになった
そういう方向に話が進み始めた時点で、私はむくれて、投げやりになった
商品を見せられて、私が気に入って選んだのに、それじゃなく自分がいいと思うものを買い与えるんなら、なんで私を一緒に連れてくるんだよ
こんなんなら、自分たちで決めて買ってきたものを私に渡してくれればいいのに
と、ムカムカした
高い買い物だったろうが、きれいに包装されたネックレスの小箱を受け取って、口から出た「ありがとう」は、まったくもって形ばかり、心なんてこもっているはずなかった
そのネックレスをつけるたびに、うれしさよりも、買った時の苦い思い出がよみがえった
後に、ハワイで今のオットと借りていた部屋に空き巣が入った時、そのネックレスも盗まれた
数えるほどしか持ってないジュエリーのうちで、一番高いものだったから、その意味ではがっかりしたけど、愛着はあまりなかった
お勤め時代に自分で気に入って買った、くずダイヤが散りばめられたパヴェリングも一緒に盗まれた
こっちのほうがはるかに悲しかった
父の血 その3
父に反抗しながらも、父の言動に私は振り回された
高校受験をきっかけに英語が得意で好きになったから、大学は英文科に進もうと思った
受験は、数学が苦手で嫌いだったから、共通一次のある国立ではなく
得意な文系科目に絞って勉強したほうがいいと思った
そう父に言ったら
「やってみないでどうする!」
押し切られて、嫌々理系の勉強もせざるを得なくなった
私の志望校のリストを見て、担任の先生が私に言った「浪人するつもり?」
当然ながら、国立は落ちたし、他の私立もほぼすべて落ち、たったひとつ女子大の英文科にひっかかった
大学卒業後、何をしたいのか全然わからなかった
どういう訳か、父は大学院に行きたいならそれもいい、と言ったが
これ以上、学校で勉強する気はなかった
当時難関だった教員採用試験にどういう訳か受かったが、校内暴力で荒れていた当時、教員になって、生徒を指導していくなんて、とてもできそうになかった
そもそも自分自身が不安定なのに、無理だと思った
就職するにしても、どこに勤めたいのか、さっぱりわからなかった
聞いたことがあるような会社をいくつか選んで、ほぼすべて落ち
父の勧めで受けた財閥系の化学メーカーにかろうじて受かった
入社して、研修が終わった後に配属されたのは、営業だった
父は「なんだ人事部じゃないのか」とバカにするように言った
経理や勤労など管理畑ばかり歩いてきた父は、どうやら営業を見下していたらしい
アメリカに住むようになり、学校で知り合った10歳年下の今のオットと結婚した
いろいろゴタゴタしていると、父は私に言い放った
「年上なんだから、お前がひっぱっていかないでどうする!」
私は「ええっ?!」と思った
そんな教育受けてないよ
子供のころから、ずっと
「お前は何もわかっていない」
「親の言うことを聞いていればいいんだ」
とことあるごとに私に言い続けてきたじゃん?
今頃になって、急に主導権もって、物事すすめろって言われてもさ
できるわけないじゃん
そんな都合のいいこと、言うなよ!
結婚が暗礁に乗り上げた私は、もともと住みたかったハワイに戻って、ひとりでやり直せるか試してみることにした
ギリギリまで父には言わなかったが、それを知った父からは
これ以上ネガティブな書き方はないだろう、という内容のEメールがきた
「ホームレスになって野垂れ死ぬのが、目に見える」みたいなことが書いてあって
字面を追っているだけで、メールから目をそむけたくなるような嫌な書きようだった
あまりにひどいので、こっちの日本人の友達に転送して読んでもらった
「これは、ひどい」と彼女は私に同情してくれた
私自身だって、この先どうなるか不安でいっぱいだったのに、ホームレスになる、とか言われると、私だっていい気持ちはしない
現実に、ホームレスやらバッグレディやらがあちこちにいるアメリカに住んでるんだし
このころから、私は、父からメールが来ても、読むだけ読んでほとんど返事をしなくなった
ときにはしつこいほどにメールが届いたが、必要最低限の返事にとどめ、あとは黙っていることにした
凍った湖
社会人になって、仕事や飲み会などで家にいる時間が減った
職場では一所懸命仕事をすれば、上司がほめてくれるし、取引先の人たちとのやり取りも楽しかった
きちんとやれば、ちゃんと評価される
これまで家で経験してきたような理不尽さは、まったくない
うれしかった
家の嫌なことも遠のいたようで
「あんなに子供時代は大変だったのに、大人になってなんともないなんて不思議」
と思った記憶がある
もちろん何ともない訳はなかったが、その時はまだ気づいていなかった
会社の清掃や茶碗洗いなどの雑用をしてくれてたおばさんのひとりが
腰かけ3年をはるかに過ぎても、いつまでも嫁に行かずに働いている私に
「うちの親戚に体が不自由だけど、いろんなことがわかる人がいるから、あなたの結婚のこととか、尋ねてあげようか?」
といわれて、お願いしたんだろう
返事を持ってきた彼女は、ちょっと深刻な表情で私に言った
「お父さんは、異常なひとですね、って言ってたけど、ほんと?」
仕事や残業、お客の接待や飲み会で、父といる時間が以前と比べてかなり減っていたせいか
ああ、確かにそうかもしれないなぁ
と昔の思い出を手繰り寄せるように、思った
そして、私のことは
「あなたは、凍った湖のよう」
そう言われて、ええっ、と思った
背中に冷水を浴びせられたようだった
でも、確かにその通りだった
生まれた時は、美しい雑木林に囲まれた、小さくて透き通った湖だったろう
それが、時を経て、悲しみ、怒り、心に壁を作り、閉ざし
冷たく凍りついた湖になった
落葉し、樹氷に覆われた木々と凍りついた湖は、それなりに美しかっただろう
でも、触ると刺すように冷たいその湖は、人を寄せつけない
私は、氷のプリンセスだった
父の血 その2
家族や親戚など、身内に対する父の異常とも言える言動は、時として凄まじかった
年老いた母親の胸ぐらを掴んで、引き倒さんばかりになった時は、手が出たが
ほとんどは、激しい言葉と強硬な態度による暴力だった
家族で夕飯のテーブルについて、鍋を囲んでいたある晩
椅子に腰かけた、背中が丸くなり小さくなった祖母には、ポータブルコンロの上に乗った鍋は、高すぎて手が届きにくい
私は「おばあちゃん、取ってあげようか」と声を掛けて、祖母の器に鍋の中身をよそおうとした
途端に横に座った父から
「余計なことをするな!なんでも自分でできるんだから、自分でやらせろっ!」
という罵声が飛んだ
故郷の高知に住む姉(私の伯母)のところでは、包丁を使って魚をさばくことの苦手な伯母をコテンパンに批判した
伯母は、自分が苦手な魚の処理は、後妻として嫁いだ年の離れたご主人にやってもらっていた
伯母夫婦には、何の問題もないことだ
そのご主人が亡くなり、未亡人になった伯母を「魚もさばけないようで女と言えるか!」という論理で、しつこく非難した
魚の他にもまだいろいろ批判したいことがあったんだろう
3人でこたつにはいりながら、父は自分の姉に対してしつこく説教と批判を重ね
ついに伯母は泣き出した
私は、そばに座ってだまって父の罵声を聞いていた
私は、いつしか、父の罵声はあまり考えることなく、右から左へ聞き流すようになっていた
私が高校生か大学生だった、ある日、毎度の父からの厳しい批判にいたたまれなくなった母が、家を飛び出していった
わかる、そりゃぁ、こんな話聞いていたい訳がない
そう思いつつ、そのままテーブルに座っていた私に向かって父は
「おいっ!ママを探しに行ってこいっ!」と命令する
あきれた私は
「自分が怒らせたんだから、自分で探しに行けば?」と冷ややかに言い返した
父の返事は「おまえは冷たい女だなっ!」だった
母の人生の後半、入退院が繰り返された時には、函館の母の長兄の家に電話をかけて
「こんな病気があることは結婚前から分かっていたはずだ!」
「おやじ(母の父親)が、そんな風なことを結婚前に言っていたぞ!」
「責任を取れっ!」
みたいなことを電話口で、激しく、口汚く怒鳴り散らした
後ろで聞いていた私は、ぞっとした
これで、母のほうの親戚とは縁が切れた、と覚悟した
父のこういう異常な面を知っているのは、長い事、母、祖母、妹と私、だけだった
東京に住んでいた叔父もある程度知っていたはずだが、ほとんど行き来がなかった
長崎時代の部下だった長いおつきあいになるご夫婦も、数年前に、ついに父の怒号の洗礼を受けた
折に触れ、美味しい食事を作ってもてなしてくれ、母亡き後に、母親がわりのように妹や生まれたばかりの甥のことを気遣ってくださっていた奥さんを、どういう理由でか、電車の中で大声で怒鳴りつけたらしい
家族ぐるみのおつきあいになって、関係が近くなりすぎたから、被害にあったわけだ
当然ながら、ご夫妻は、父から徐々に距離を置くようになった
でも、普通のひとは、父の本性を知らない
実際に被害を受けてみないと、それがどういうものなのか、わかってもらうのはむずかしい
どうせ、他の人にはわかってもらえない
そう思って、あきらめるしかなかった
父の血
こうしてブログに過去のことを書いていると、ふと思う
「ああぁ~、なんか、私もパパと同じことしてるじゃん 」
母が亡くなって、勤めていた左遷先の関西にある会社を退職して、市川の自宅に戻ってしばらくたった頃
父から自伝めいた内容の葉書が、時折届くようになった
偶然その内容を見た、友達は「お父さん、大丈夫?」と心配そうに私に尋ねた
その心配は、父の健康とか妻が亡くなって精神的に参っているのでは、というたぐいの心配ではなく、ハガキに書いてある内容の異様さに驚いて
「お父さん、ずいぶん異常な人みたいだけど、大丈夫なの?」
というのが、本音の心配だった
彼女の尋ね方でわかった
それは回顧録だが、読んであまりいい気持ちになる内容ではなかった
父は、書き終わったその回顧録を、大学の先輩で、長年お世話になっていた小さな出版社をされていた方の助けを得て、自費出版した
うすい冊子になった回顧録を、父は家族、親族はもちろん、長年つきあいのあった友人や会社時代の部下たちにも、贈った
冊子になった時点で、あまり気は進まなかったが、もう一度通して読めば、どうして父がこれまでこういう生き方をしてきたのか、その理由がわかるかもしれない、と思って、読んだ
そういうことは、冊子として読んでも、何もわからなかった
父の「心情」が、ぜんぜんみえない、伝わってこない
その後、何年も経ってから、また読んだ気がするが、その時も同じだった
なぜ、自分の母親に、あれほどひどい仕打ちができたのか
なぜ、こんな人間に育ってしまったのか
その回顧録を読んでも、まったく見えてこない
書いてあることは、時系列に起こったことと
家族、親戚、友人、知人に対する批判、恨み、決めつけ、がほとんどだ
心温まるようなエピソードなんて、ひとつもない
私のみたところでは
父は、ほんとうのところは、母親(私の祖母)が嫌いだったんだと思う
どうして嫌いになったのか、回顧録を読んでも、さっぱりわからない
ただ、長男である兄(伯父)が自分の好きな女性と所帯を持ったことを怒って
「お前の世話にはならん!××(父)のところへ行く!」と言い放った母親の面倒を見るのは、次男である自分のつとめ、と固く思い込んでいた節がある
父には、兄の他に嫁いだ姉ふたりと所帯を持った弟がいた*
*今も健在なのは、叔父だけ
ほんとうは嫌なのに
「本来面倒をみるべき兄貴の世話にならない、というなら、僕がみるしかないじゃないか!」
ということだったんじゃなかろうか
そういう怒りが、不満がなければ、年老いた母親の着物の胸ぐらを父がつかんで、ひきずるようにし、下着をつけない祖母の恥部が、私の目の前ではだけるような、そんな壮絶な場面を私が見ることはなかったはずだ
私も去年の誕生日で還暦を迎えた
洗面所で顔を洗って、ふと目の前の鏡を見て、ぎょっとすることがある
年輪を重ねた私の顔に、父の顔が重なることがあるからだ
昔、母がよく「あんたは、○○のおばさんに似ている」と言った
要するに母にも父にもあまり似ていない、という意味だ
私は、ある意味、ほっとしていた
美人の母に似ないのは残念だが、あの父に似ていないのは有難かった
なのに、今、自分の顔に父を見る
まるで、ホラー映画を見ている気持ちだ
広島の暮らし
長崎に居る頃から、私はすでに子供のくせに、冷めた考えを持ち始めていたと思う
「どうせまた3年経てば、引っ越して、転校になる」
だから友達を作っても仕方ない、とまでは考えてなかっただろうけど
友達、という言葉は、私にとって長い事「空虚」なものだった
仲良し・・・なんて、まったくもって何なのか、わからない関係
そして、3年後に、長崎から広島へ引っ越した
ほらね、やっぱりでしょ・・・って感じ
それにしても、私の父と母は、まだ小学校3年生の 私の心情、というものを
考えたことがあったんだろうか?
家では、嫁と姑の関係はもちろん、母親(祖母)と息子(父)の間でも、いさかいはしょっちゅう
その家庭で育つひとり娘を「あの小学校は、程度がここのより高いから」という理由で、広電に乘ってひとり越境通学させた
当然、家の近所に友達はいない
私は、毎日、遅くまで、生徒が誰もいなくなるまで、学校に残っていた
「どうしてそんなに遅くまで学校に残っているの?」とは、先生からも母からも尋ねられた記憶はない
放っておいても子供は育つ、と思っていたんだろうか
学校が休みの日の遊び相手は、となりの社宅に住む、同年代の男の子ふたり
そうじゃなければ、ひとりで遊んだ
住んでいた高台にある社宅から坂を下っていったところに、自動車教習所があった
そこが休みの日に、自転車で教習所内の道路を自転車暴走族みたいに、ビュンビュン乗り回した
坂道発進用に坂もあったし、飽きることなく、競争したりしながら自転車で走り回った
今思えば、どうやって中に入ったんだろう
のんびりした町だから、鍵もかかってなかったのか
そういえば、この教習所は、夏休みのラジオ体操の会場だったように思う
大雪が降った日には、かまくらをこしらえて、中に赤ん坊だった妹を入れて遊んだりした
社宅の敷地には、夕方暗くなるとコウモリが飛び交った
一度、もう少し丘を登ったところに住む支社長さんのお宅にお邪魔した時は、もうじき大学生くらいの年頃のお嬢さんが、キャラメルを作ってくれた
近所で、苺の栽培をしている農家があって、大きな立派な甘い苺を安価で分けてくれた
美味しい大きな苺を、遠慮なく山ほど食べられた
たまに母とふたりで買い物に行ったらしい
帰りに、広電に乘る前に西広島のデパートで、お汁粉を食べた
ついてくる塩昆布と甘いお汁粉を、かわりばんこに食べるのが好きだった
経済的には恵まれていたと思う
長崎時代から、すでに私は自分の部屋があった
広島の部屋の窓からは、瀬戸内海と遠くに広島空港(当時)の滑走路が見えた
父の郷里の高知から、おじやおば、いとこたちが何度か遊びに来たし、私たちも水中翼船と長距離バスを乗り継いで高知へ行った
親戚が来ると宮島へ観光に行った
父は社宅に同僚や部下を招いて、よく麻雀をした
母に、食べ物やお酒を運ぶよう言われて、麻雀をしている部屋のドアを開けると、たばこの煙がもうもうとたちこめていた
長崎で飼い始めたチロは、木箱に入れられ、引っ越しトラックに乗せられて、広島に来た
しばらくは家にいたはずだけど、いつの間にかいなくなった・・・
いなくなったことを悲しんだ記憶がない
私はいつもどこかで緊張していた
家族や親戚、周りの人にも、本当には気を許せなかった
「甘える」ということができなかった
どこかピリピリした、怒りを抱えた神経質な子供だった