広島の暮らし
長崎に居る頃から、私はすでに子供のくせに、冷めた考えを持ち始めていたと思う
「どうせまた3年経てば、引っ越して、転校になる」
だから友達を作っても仕方ない、とまでは考えてなかっただろうけど
友達、という言葉は、私にとって長い事「空虚」なものだった
仲良し・・・なんて、まったくもって何なのか、わからない関係
そして、3年後に、長崎から広島へ引っ越した
ほらね、やっぱりでしょ・・・って感じ
それにしても、私の父と母は、まだ小学校3年生の 私の心情、というものを
考えたことがあったんだろうか?
家では、嫁と姑の関係はもちろん、母親(祖母)と息子(父)の間でも、いさかいはしょっちゅう
その家庭で育つひとり娘を「あの小学校は、程度がここのより高いから」という理由で、広電に乘ってひとり越境通学させた
当然、家の近所に友達はいない
私は、毎日、遅くまで、生徒が誰もいなくなるまで、学校に残っていた
「どうしてそんなに遅くまで学校に残っているの?」とは、先生からも母からも尋ねられた記憶はない
放っておいても子供は育つ、と思っていたんだろうか
学校が休みの日の遊び相手は、となりの社宅に住む、同年代の男の子ふたり
そうじゃなければ、ひとりで遊んだ
住んでいた高台にある社宅から坂を下っていったところに、自動車教習所があった
そこが休みの日に、自転車で教習所内の道路を自転車暴走族みたいに、ビュンビュン乗り回した
坂道発進用に坂もあったし、飽きることなく、競争したりしながら自転車で走り回った
今思えば、どうやって中に入ったんだろう
のんびりした町だから、鍵もかかってなかったのか
そういえば、この教習所は、夏休みのラジオ体操の会場だったように思う
大雪が降った日には、かまくらをこしらえて、中に赤ん坊だった妹を入れて遊んだりした
社宅の敷地には、夕方暗くなるとコウモリが飛び交った
一度、もう少し丘を登ったところに住む支社長さんのお宅にお邪魔した時は、もうじき大学生くらいの年頃のお嬢さんが、キャラメルを作ってくれた
近所で、苺の栽培をしている農家があって、大きな立派な甘い苺を安価で分けてくれた
美味しい大きな苺を、遠慮なく山ほど食べられた
たまに母とふたりで買い物に行ったらしい
帰りに、広電に乘る前に西広島のデパートで、お汁粉を食べた
ついてくる塩昆布と甘いお汁粉を、かわりばんこに食べるのが好きだった
経済的には恵まれていたと思う
長崎時代から、すでに私は自分の部屋があった
広島の部屋の窓からは、瀬戸内海と遠くに広島空港(当時)の滑走路が見えた
父の郷里の高知から、おじやおば、いとこたちが何度か遊びに来たし、私たちも水中翼船と長距離バスを乗り継いで高知へ行った
親戚が来ると宮島へ観光に行った
父は社宅に同僚や部下を招いて、よく麻雀をした
母に、食べ物やお酒を運ぶよう言われて、麻雀をしている部屋のドアを開けると、たばこの煙がもうもうとたちこめていた
長崎で飼い始めたチロは、木箱に入れられ、引っ越しトラックに乗せられて、広島に来た
しばらくは家にいたはずだけど、いつの間にかいなくなった・・・
いなくなったことを悲しんだ記憶がない
私はいつもどこかで緊張していた
家族や親戚、周りの人にも、本当には気を許せなかった
「甘える」ということができなかった
どこかピリピリした、怒りを抱えた神経質な子供だった