母のこと-5
結婚後、最初に母に精神的な不安定が発症したのは、父の栄転で家族揃って長崎へ引っ越した後だった
「課長婦人なんだから、がんばらなきゃ」と張り切りすぎた結果らしい
でも、通院でわりとすぐに収まったようだ
私は小学生の低学年だったから、あまり覚えていないが、父の自伝本にそうあった
その後引っ越した、広島と伊丹では発症はなかったらしい
妹が生まれて忙しかったんだろう
私が中3の秋に引っ越した、小金井で再発した
これは私も少し覚えている
お隣の家にあがりこんで、ペラペラペラペラ、おしゃべりが止まらず
お隣の人を困らせたらしい
でも、この時も、通院でことなきを得たようだ
その後、市川へ引っ越し、寝たきりの姑を自宅で介護し
祖母が亡くなった後、すぐに高知に住む父の下の姉(妹だっけ?)が難病で東京の病院に入院したので、そのおばの世話をしていた
休む間もなくだ
大きな不調が再発したのは、父が関西の子会社に左遷された後だ
父は、一部上場企業で、若くして取締役になり、本人は社長よりも副社長になると自分で思っていたそうだ
が、派閥争いで出世街道からはずされた
これをかなりはっきりと恨んでいた
その暗い恨みからであろう、もともと内弁慶で、評論家、正しいのは自分だけ、と信じて疑わない父は、鬱病の薬を飲むようになったそうだ
娘ふたりがいる市川を離れて、恨みを抱えて、鬱々とした父とふたりで、川西で暮らすことになった母が精神の調子を崩すのに、それほど時間はかからなかった
私はすでに会社勤めだったが、妹はまだ大学生だった
市川で飼っていた猫3匹は、関西での住まいが定まった後、飛行機で空輸した
猫をいれたキャリアーのラベルが「活猫」となってて、それが可笑しくて笑った
妹だったかな、一緒に笑ったのは・・・?
慣れない土地の、最寄りの駅から歩いて20分以上かかる新築建売住宅で、父が働いている日中は、猫3匹と一緒に家にいる母を
妹が「京都へ遊びにいこうよ」と誘うと、母は「パパから電話がかかってきた時、いないといけないから」と断ったという
私は、長女として、家族が楽しく過ごす時間を作るべく
勤めていた会社の保養所を利用して、週末の家族旅行を計画、実行した
けなげだったな・・・今思うと
一度は、比叡山を超えて、琵琶湖に出て、琵琶湖のほとりの保養所で一泊した
2度目は、ちょうど遷宮を迎えた伊勢志摩だった
東京に住む妹と私は、名古屋かどこかで、川西から来る両親と落ち合い、伊勢神宮を参拝して、なにかの名物料理をがらんとした料理屋の2階で食べた
その名物料理がなんだったか・・・記憶にない
志摩の保養所に泊まった翌日は、ミキモトの真珠養殖の様子を遊覧ボートに乗って見に行ったりした
幸い、どちらの旅行も我が家にしては、平穏無事に済んだ
夜はカラオケに行ったり、妹とふたりでバーで飲みなおしたり
保養所の宿泊費は安かったし、飲み食いは父が払ってくれるから、いくらでも頼めた
父は、自分が飲み食いが好きなので、そういうことには鷹揚だった
でも、家族旅行の写真におさまった私の表情は、ぜんぜんさえない
硬くて、憂いがある、沈んだ表情だ
お酒が入れば、まだ別だったけど
母、家族旅行は楽しんだと思う
でも、たまの息抜きだけでは、毎日の心の負担は取り除けなかったんだと思う