はりぼてタコのひとりごと

(旧)なめたらいかんぜよ!タコの毒吐きブログ

長崎 城山小学校

父の転勤で、鶴見から長崎へ家族4人で引っ越した

小学校1年から3年まで、城山小学校に通った

でも、学校のことは、先生のことも、教室のことも、同級生のことも

ほとんど何も記憶がない

 

借り上げ社宅は、爆心地に近く、家の近くを大きな川が流れていて、そこに橋が架かっていた

橋から釣りをしていた人もいたような気がする

この川は、浦上川だったんだと思う

通った城山小学校も爆心地に近く、相当な被害を受けたはずだ

 

長崎出身の父の元部下の女性は

「どうしてあそこを社宅に選んだのか」

「爆心地の近くで被害がひどかった場所で、私なら住みたくない」

と後に私に言った

 

どうりで、原爆記念日の8月9日になると、まるで空気から悲しみが滲み出ているような

異様な雰囲気を、子供なのに感じた

 

ここで私は、性的ないたずらを何度もされた

一度は、男の子の家だったと思う、その子の部屋のベッドかふとんの中で

キスをされ、局部をおしつけられたと思う

他にも何人かの男の子がいたと思う

ひとりだけだったか、何人かに触られたのか覚えていない

他に女の子がいたかも、覚えていない

 

別の時には、すでに暗くなった時間に、戸外の家の側面のところで

年長の男の子に、局部を見られるか触られるかした

スカートをおろされていたのか、めくられていたのか、記憶にない

その時、父と母がそこにやってきて、その子たちから私を引き離して、家に連れて帰られた記憶がある

でも、私がされていたことについては、父も母もひとことも私に言わなかった

叱られもしないかわりに、いたわられたり、心配の言葉をかけられた記憶もない

私が憶えていないだけなのかもしれないが、記憶にない

 

母の長兄の息子ふたりに、お医者さんごっこをされた、ぼんやりした記憶もある

これは、長崎ではなく、母の郷里の函館に夏休みに遊びに行った時だったはずだ

彼らが長崎に来たことはないから

 

どちらの場合も、私は逆らうことなく、ただされるままになっていたように思う

 

長崎でも、記憶に残っている友達は、いない

近所の子と遊んだり、ちょっとしたいじめみたいなこともやっていたが

はっきりとした記憶にある「お友だち」は、いない

 

長崎で、母が結婚後初めて、躁鬱病を発病したと父の自伝冊子にあるが

私は覚えていない

 

おばあちゃんが打ち直していた敷布団の綿のところに

どういうわけか火のついたマッチを落として(故意か、うっかりか不明)

ふとんの一部が黒焦げになった、気がする

 

白黒テレビが家に来たのは、長崎だったか、鶴見だったか、それとも亀有ですでにあったのか・・・わからない

たぶん亀有時代にあったんじゃなかろうか

ひょっこりひょうたん島を見た

テーマソングとドンガバチョ、を覚えている

 

長崎で、猫を飼った

父が誰かからもらってきた白い猫だった

チロと名付けて、可愛がった

掛け布団の下で畳に爪でガサガサ音を立てると、飛びついてくるのが面白くて何度も繰り返した

なのに、一度、そんなチロの前足を持って振り回し、勢いで飛んで行ってしまったチロが、片足を骨折してしまったような記憶がある

 

チロは、どっぽんトイレに落ちたこともある

気づいた母が、耳をひっぱって引き揚げて、その後えらい思いをしながら洗ったんだろう

 

長崎では、おくんちに学校が休みになった

龍おどりを見に行ったような気がする

 

長崎にも、あまり楽しい思い出はない

楽しみだったのは

父が東京へ出張に行くとお土産に買ってきてくれる、大きな四角い缶の箱に入った泉屋のクッキー 

函館の祖父が送ってくれる、木箱に入った青森のりんご

もみ殻の中に隠れている甘い香りのするリンゴを、手探りで取り出すのが楽しみだった

 

 

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鶴見の団地

私が生まれた時、一家4人が住んでいた亀有の借り上げ社宅から、鶴見の新築の社宅団地へ引っ越した

借り上げ社宅の区域が道路になるから、立ち退かないといけなかったんだと思う

多分、東京オリンピックのためだろう

 

今、思い出したが、亀有の他にも板橋にも社宅があったはずだ

両親たちは、そこにも住んだんだろうか・・・?

わからない

後で気が向いたら、父の自伝冊子を見てみよう

 

私の記憶では、鶴見の団地は、少し小高い場所にあって、前も後ろもひろい野原だった

というか空き地だったんだろう

ひとりで野原に座ってシロツメクサを摘んで、花の冠を編んだ

男の子たちと一緒になって、団地の玄関の前に置いてある配達ボックスからヤクルトを盗んで飲んだりした

 

英語のクラスにも通っていた記憶がある

暗い感じの教室だったことだけ、覚えている

先生や一緒に習った友達のことは、なにも記憶にない

 

台風がくるからと、ベランダに面したガラスのスライド窓にテープで目張りをした

 

隣に住んでいたSさんとは、ベランダ越しに、ものをやりとりしたりした

このご家族とは長いおつきあいになった

母が急死した時には、女川から東京まで、いの一番に飛んできてくれた

昨年、父が亡くなった時も、今は未亡人になった奥さんが、コロナ禍のなか、足が悪いのにもかかわらず、父の自宅まで息子さんと一緒にお別れに来てくださった

 

会社の行事で海へ行って、多分潮干狩りだろう、父の背中が日に焼けて真っ赤になった

ぴらぴらになった父の背中の皮をはがすのがおもしろくて、はしゃいだ

 

ここで、小学校に入学したはずだが、ぜんぜん記憶がない

 

仲良しの友達は・・・いなかったと思う

ぜんぜん覚えてない

 

 

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栗色のピアノ

洋館や教会があちこちにある、異国情緒豊かな港町の函館で育ったせいだろうか

私立のカトリック女子高へ通ったせいだろうか

海産物卸業をする家に生まれ育った、乳母日傘で、ソフトボールのピッチャーだったべっぴんさんの母は、クラシックが好きだった

 

でも、コンサートに足を運んだことは、なかったと思う

地方に住んでいた時はもちろん、東京に引っ越しても

 

年末に恒例のウィーンフィルの演奏が、NHKで放映されるのを、台所でおせちの支度をしながらうれしそうに聞いていた

一度くらい、当時できたばかりだったサントリーホールへ連れて行って、コンサート聞かせてあげたい、と思ったけど、実現しなかったはず

 

そんな母の影響なのか

小金井に住んでいた、中学・高校時代、私は枕元にレコードプレイヤーを置いて

白鳥の湖や眠れる森の美女のバレエ音楽を、レコードで聴きながら眠った

レコードが終わると、針は自動的に戻るから、ちょうどいい子守唄だった

 

広島に住んでいた時、ピアノがうちに来た

両親が買ってくれたのか、祖母だったのか、記憶にない

広島に引っ越してから、オルガンを熱心に弾くようになった私に、それならピアノをと思ったらしい

届いたピアノは、よくある黒いのじゃなくて、とってもきれいな栗色のつやつやした美しいアップライトピアノだった

ピアノのトップにかけてあるカバーは、美しい深緑色のビロードに同じ色のレース

私は、ひとめで恋に落ちた

毎日言われなくてもピアノの前に向かった

両手で弾けるようになる前に、片手ずつ練習するのも、まったく苦にならなかった

夢中になって、ピアノにのめり込んだ

 

広島で通ったはずのピアノの先生のことは、ぜんぜん覚えていない

でも、次に引っ越した伊丹で教わったM先生のことは、今でもよく覚えている

 

先生は若い女性で、私が住んでいた社宅の近くにあった自衛隊官舎に住む人の家に、週一回教えに来ていて、私はそのお宅に通った

 

私は、家庭で感じている悲しみや苦しみ、怒りを、時に激しく鍵盤をたたくことで、ピアノの音色に乗せることで表現していたと思う

美しいピアノのメロディが、嫌なことをすべて昇華してくれる

そんな気持ちが、無意識にあったと思う

 

そんな私が、情感を込めて弾くピアノを、先生はとても褒めてくれた

弾いている私のとなりでよく「歌って、歌って~」と思いを込めるようにうながした

 

あるとき、どういう理由だったか記憶にないが、先生が私を自宅に招待してくれた

電車かバスか、それとも両方だったかで、最寄りの駅まで行って、迎えに来てくれた先生に連れられて、おうちへ

先生のお母さまにも紹介されたような・・・

美味しい洋菓子と紅茶をごちそうになって、先生のピアノで何か弾いたように思う

 

大好きなピアノの先生に可愛がってもらえることは、うれしかった

でも、素直にそのやさしさを信じられない自分がいた

なんで、こんなに親切に優しく親しくしてくれるのか、よくわからなかった

何かこれまで見たことのない珍しいモノを、首をかしげながら遠巻きに見ている感じだ

これは、何・・・?

 

中3の秋に、伊丹から小金井に引っ越して、先生ともお別れすることになった

しばらくはハガキのやりとりをしていたけど

しばらくして、いつのまにか疎遠になった

 

私のよいところを口にだして、褒めてくれた初めてのひとだったと思う

私を可愛がってくれたひとだった

今も時々このM先生のことを思い出す

ずっと連絡を続けておけばよかった

 

小金井に引っ越して、少しの間新しい先生についたけれど

しばらくして通うのを止めてしまった

 

それでもピアノは、家で時々弾き続けた

市川で、私がピアノを弾くと、母は台所で仕事をしながら喜んで聞いていた

 

そのピアノは、今、妹の家にいる

 

私の家には、数年前にオットがクリスマスに買ってくれた電子ピアノがある

もうずっと弾いてない

また弾いてみようか、と思っている

 

 

 

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きつねはどこ?

私はどんな子供だったのか

 

父の長姉である伯母によれば

お店にはいって、きつねうどんを注文して、うどんが運ばれて来ると

「きつねはどこ?」といって、箸で探してたそうだ

きつねを食べるつもりだったのか・・・な?

 

家族で寄席にいったらしい

舞台の袖から出てきた林家三平に向かって

「さんぺいちゃーん!」と大声で叫んだそうだ

喜んだ三平ちゃんは、自分の噺が終わって、袖に引き上げる時に

「お嬢ちゃん、バイバーイ」と何とか言ってくれたらしい

なかなか度胸があるじゃん

 

お隣の居間にあがりこんで、ちゃぶ台の上に体を伸ばして

のっかってたお漬物を食べた

という話も聞いた

遠慮のない子供だ

 

もともとは、結構、天真爛漫なところが、あったんだろう

 

それが、つぶされてゆくんだから、育つ環境ってほんとうに大事だ

 

それも自分の「魂」が、成長するために選んだ学びのプロセス、とも読むけど

 

そのプロセスは、私にとって、過酷で、恐ろしく長かった

「長かった」と過去形にできるか、まだわからない

なぜなら、これで終わったと思ったら

また、ぞろ出てくるからだ

まるで、たまねぎみたいだ

剥いても剥いても、次がある

 

一生剥き続けるのかもしれない

 

 

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父のこと

いつ頃から、父を嫌うようになったのか

最初は、好きだったはずだ

 

祖母におぶわれながら「パパはいつスイカをかってきてくれるの?」と聞いたらしい

父が買ってきてくれた(んだと思う)白い犬のぬいぐるみが、お気に入りだったらしい

首にピンクのリボン(だったと思う)がついていて、その下の胸の部分が擦り切れて、中の藁が見えていても、まだ持っていた

父の自伝本には「毎週のように肩車して上野動物園に連れて行った」とある

記憶はない

 

小さい頃、父に「布団蒸し」された

ふとんの中に巻き込むように、ぐるぐる巻きにされた

苦しいし、怖いしで、私は泣き叫んだ

どういう理由で布団蒸しにされたのか、覚えていない

父が怒って、何かの罰でやられた、というよりも

私が布団にぐるぐる巻きにされて泣き叫ぶのを、父が面白がっていたような印象がある

私は、声がかれるほど叫び、布団から解放されても、ひっくひっく言いながら泣いたように思う

 

長崎に住んでいた頃、父と海に行った

背中に乗せて泳いでやる、というから父の背中におんぶのように乗っかったら

その後、海に潜ったので、私も水面下になった

そんな約束ではなかった

私が驚いて泣くのがおもしろかったんだろうか

 

長崎では、堤防からの釣りにも一緒に行ったが、つまらなかった

小袋に入ったお菓子を渡されて、それを食べ終わると

「帰ろうよー」とせがんだ

 

子供の頃は、父が正しくて、母がのろくて「できない人」なんだと思っていた

父が日頃から、母にそう言っていたからだと思う

ひどい時には、父と一緒になって母をけなしたように思う

バカにしていた、かもしれない

ある時期までは、私は独裁者である父の子分だった、かもしれない

 

 

 

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母のこと-6

暮れも押し迫った頃に亡くなった伯父の通夜と葬儀に、父と参列した

葬儀が終わった後、川西で留守を守る母に電話をしたら

電話には出るが、ほとんどしゃべらない

何か尋ねても、答えが帰ってこない

 

これはおかしい

また調子が悪くなったに違いない

 

父とふたり新幹線(だったと思う)で、川西へ取って返した

すでに大晦日だったと思う

 

母の状態はあきらかに悪化していた

 

その母を見て、父はものすごく不機嫌になり

また始まった、としか私には思えない、グタグタが嫌で

年越しの人で賑わう近所にある神社へ、避難がてら歩いて行った

 

歩いていく私の背後から、母が「○○ちゃーん」と呼んだのが聞こえたけど

手を振って、そのまま神社へ歩き続けた

後に父は「お前は、ママが呼ぶのに無視して行って、神社で買い食いしていた」

と私を責めた

神社の出店で何か食べたような気もするけど、よく覚えていない

 

急を知って、妹が今の旦那H君が運転する車で東京から駆けつけた

驚いたことに、妹たちが着いた時には、母はまったく動けなくなっていた

まるで、硬直しているかのようだった

話もできない

鬱で、体が動かなくなるなんて、想像したこともなかった

 

そんな母を後部座席に押し込めるようにして乗せて

H君が運転する車で、東京へ向かった

雨だったような記憶がある

当時、妹は看護師として働いていて、それまでも彼女のつてで母は入院していたので

また、そこへ連れてゆくことにしたのだ

 

途中のサービスエリアで、母の水分補給をしたりしながら

(トイレはどうしたのか憶えてない)

無事、東京の病院に着いた

が、ベッドに空きがない

仕方ないので、これも以前にいっとき入院したことがある調布の病院へ入院することになった

 

車いすに座った母は、話すことはできず、目だけはっきりと見開いている

その母の目を見ながら

「もう大丈夫だよ、ちゃんと面倒みるから」

「心配しないで、ゆっくり治そうね」

というようなことを言った

 

それは本心だった

 

だけど、母はこれ以上、娘たちに迷惑をかけたくないと思ったんだろう

そして、生きるのあきらめた んだと思う

 

 

母は川西の家に戻る前に、血液検査など、身体全般にわたる健康診断を受けていた

母が亡くなってしばらくしてからその結果の報告がきた

どこにも異常はなかった

 

 

 

 

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母のこと-5

結婚後、最初に母に精神的な不安定が発症したのは、父の栄転で家族揃って長崎へ引っ越した後だった

課長婦人なんだから、がんばらなきゃ」と張り切りすぎた結果らしい

でも、通院でわりとすぐに収まったようだ

私は小学生の低学年だったから、あまり覚えていないが、父の自伝本にそうあった

 

その後引っ越した、広島と伊丹では発症はなかったらしい

妹が生まれて忙しかったんだろう

 

私が中3の秋に引っ越した、小金井で再発した

これは私も少し覚えている

お隣の家にあがりこんで、ペラペラペラペラ、おしゃべりが止まらず

お隣の人を困らせたらしい

でも、この時も、通院でことなきを得たようだ

 

その後、市川へ引っ越し、寝たきりの姑を自宅で介護し

祖母が亡くなった後、すぐに高知に住む父の下の姉(妹だっけ?)が難病で東京の病院に入院したので、そのおばの世話をしていた

休む間もなくだ

 

大きな不調が再発したのは、父が関西の子会社に左遷された後だ

父は、一部上場企業で、若くして取締役になり、本人は社長よりも副社長になると自分で思っていたそうだ

が、派閥争いで出世街道からはずされた

これをかなりはっきりと恨んでいた

その暗い恨みからであろう、もともと内弁慶で、評論家、正しいのは自分だけ、と信じて疑わない父は、鬱病の薬を飲むようになったそうだ

 

娘ふたりがいる市川を離れて、恨みを抱えて、鬱々とした父とふたりで、川西で暮らすことになった母が精神の調子を崩すのに、それほど時間はかからなかった

 

私はすでに会社勤めだったが、妹はまだ大学生だった

市川で飼っていた猫3匹は、関西での住まいが定まった後、飛行機で空輸した

猫をいれたキャリアーのラベルが「活猫」となってて、それが可笑しくて笑った

妹だったかな、一緒に笑ったのは・・・?

 

慣れない土地の、最寄りの駅から歩いて20分以上かかる新築建売住宅で、父が働いている日中は、猫3匹と一緒に家にいる母を

妹が「京都へ遊びにいこうよ」と誘うと、母は「パパから電話がかかってきた時、いないといけないから」と断ったという

 

私は、長女として、家族が楽しく過ごす時間を作るべく

勤めていた会社の保養所を利用して、週末の家族旅行を計画、実行した

けなげだったな・・・今思うと

 

一度は、比叡山を超えて、琵琶湖に出て、琵琶湖のほとりの保養所で一泊した

 

2度目は、ちょうど遷宮を迎えた伊勢志摩だった

東京に住む妹と私は、名古屋かどこかで、川西から来る両親と落ち合い、伊勢神宮を参拝して、なにかの名物料理をがらんとした料理屋の2階で食べた

その名物料理がなんだったか・・・記憶にない

志摩の保養所に泊まった翌日は、ミキモトの真珠養殖の様子を遊覧ボートに乗って見に行ったりした

 

幸い、どちらの旅行も我が家にしては、平穏無事に済んだ

夜はカラオケに行ったり、妹とふたりでバーで飲みなおしたり

保養所の宿泊費は安かったし、飲み食いは父が払ってくれるから、いくらでも頼めた

父は、自分が飲み食いが好きなので、そういうことには鷹揚だった

 

でも、家族旅行の写真におさまった私の表情は、ぜんぜんさえない

硬くて、憂いがある、沈んだ表情だ

お酒が入れば、まだ別だったけど

 

母、家族旅行は楽しんだと思う

でも、たまの息抜きだけでは、毎日の心の負担は取り除けなかったんだと思う

 

 

 

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