はりぼてタコのひとりごと

(旧)なめたらいかんぜよ!タコの毒吐きブログ

母のこと-4

通夜も葬儀も滞りなく、終わった

火葬場で、母の棺が焼却炉に入り、扉が閉じられると

妹が泣きながら何か叫んでそちらに行きそうだったので、後ろから引き留めた

その後は、彼女のその時のボーイフレンド、今の旦那さんに任せた

 

母が亡くなってから、葬儀が終わるまで、私はほとんど泣かなかった

母が病院から家に戻った晩、安置された母を見ながら、思わず

「なんで寝てるの?」

「あんなに眠れないって、言ってたじゃない」

と言い始めたら、泣けてきた

私の後ろに座っていた叔父が泣く声が聞こえた

 

出棺の時、母の遺影を抱えて、参列してくださった方々の前に立ったら、涙が出た

妹からは「おねえちゃんは、なんで泣かないの」と言われた

 

何で・・・?

わからないけど

私の心は、もうとうの昔に 凍りついた湖 のようになっていたから、だと思う

母が亡くなったからといって、解けるほど薄い氷じゃなかった

 

その当時の私は、ちょっとおかしかった

葬儀の前に、夜遅く、当時つきあっていた年下のボーイフレンドと、近くのラブホテルでさんざんやりまくった

 

 

母の死因が何だったのか、覚えていない

母は、いわゆる精神病院で亡くなった

亡くなる前の数年、躁鬱病と診断されて、何度か入院もした

薬が変わるたびに、症状が上下したような記憶がある

20年以上前のことなので、いまとなっては、あまり詳しく覚えていないが

亡くなる前の数か月は、市川の自宅マンションで私と一緒に暮らしながら、通院した

状態が落ち着いてきたので、医師の許可もあり、暮れも押し迫った頃に、父が住む川西の家に戻った

父と暮らす家に戻ってすぐ、横浜で入院していた父の兄が亡くなった

父は、母を川西に残して、葬儀に出るためひとり上京した

 

今思えば、なぜ母をひとり残したのか、悔やまれる

 

 

 

 

 

 

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母のこと-3

昨日、1月10日は、母の命日である

何回目の命日なのか、数えていないから覚えていない

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母は、衝撃的なかたちで、この世を去った

 

1月10日、私は当時勤めていた東京の会社で、残業をしていた

たぶん8時過ぎだったろう、職場の広いフロアは、ほとんどひとけがなかった

私は、九州の支社に転勤になった以前の上司と電話で世間話をしていた

(彼も残業をしていた)

すると一緒に残業していた、同僚男性が私にメモをよこした

メモには「病院から電話です」とかなんとか書いてあった

取り次いでくれたのか、私が病院に掛けなおしたのか、記憶にない

電話の向こうで病院の人が

 

お母さんの心臓が止まりました。すぐ来てください

 

というようなことを言った

 

私は、電話を切った後、すぐさま更衣室に走り、制服の上にコートを着て、バッグをひっつかんで、エレベーターホールへ走った

会社の前で、タクシーをつかまえて(今思えば、よくすぐつかまった)

病院の名前を告げて「急いでください」と言ったと思う

その時代には、携帯電話なんて存在しなかったから

息をつめて、タクシーが病院に着くのを待った

 

病院に着いて見たのは、素っ裸にされて処置台に横たわる母

まだ救命処置の最中だったか、もう死後の処置だったのか

よく覚えていない

母の姿を見ながら、壁に寄りかかって、ぼうぜんとした

 

病院の1階にある公衆電話から、連絡すべき人に電話をかけた

妹は「えっ、今日、面会に行ったばかりだよ?!」

当時関西で仕事をしていた父は、絶句した

私の勤務先の部長は「えっ、お母さん、そんなに悪かったの?!」と驚いた

あとは、父が懇意にしている元部下のSさん、叔父、くらいだったと思う

 

病院に最初に着いたのは、叔父だったか、元部下のSさんだったか

叔父が「解剖しなくていいの?」というようなことを、つぶやくように私に尋ねた記憶がある

そんなこと、考えてもみなかった

(その時は、そんなことを考える余裕はとてもなかったが、後で考えれば、してもらうべきだったろう

あまりにも急な死だ、医療過誤があったかもしれない)

 

人事畑の長いSさんが、母の遺体を自宅に運ぶ手配を、手際よくすすめてくれたんだろう

私は、Sさんの車に同乗して自宅に戻った

南に面した畳の部屋に母を安置するために、そこにあったものを別の部屋に放り込んで

畳の部屋を急いで掃除した

母が家に戻り、叔父と私でひと晩、母に付き添った

妹もいたはずだが、記憶にない

 

翌朝、父が一番の飛行機で飛んできた

部屋のふすまを閉めて、ふたりだけにした

 

最初の弔問客は、父と同じ会社に勤め、長年家族ぐるみで行き来のあったご夫婦だった

定年退職後に戻った故郷の女川から、真っ先に駆けつけてくれた

まだ午前中だったと思う

どうやったらこんなに早く来られるのかと思うほど早かった

心から有難かった

 

青天のへきれきのごとき、母の急死に、日頃はあれほど母をコテンパンにいう父は、もぬけの殻のようになり

まったく役に立たなかった

私が実質上の喪主になるしかなかった

葬儀屋の担当者やSさんの助けを得て、私が母の葬儀の段取りを決めた

 

喪服なんて持ってなかったので、妹とふたり、雨の中を私が車を運転して

近くのそごうかどこかへ喪服を買いに行った

母が亡くなったばかりで、母の葬儀のためだというのに

「これが似合うかも」「こっちのほうはどう?」

なんて言いながら、喪服選びをしている自分たちが、なんだか不謹慎に感じた

 

母は、まだ59歳だった

 

 

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母のこと-2

母との思い出で、思い出すたびに胸が締めつけられるようになることがある

 

広島に住んでいた頃のような気がするから、小学校高学年だ

私は、何かのことで母に手伝ってほしいと頼んだか、何かを尋ねたんだと思う

はっきり覚えていない

はっきり覚えているのは、母の返事が

 

「ママがいなかったら、どうするの?」

 

だったことだ

 

私は反射的に、カチーンときて

「ママがいるから、きいてるんじゃないっ!?」

と激昂し、同時に

 

「じゃあ、いいよ!もうきかないっ!(尋ねない)

 

と心底拗ねた

実際に母にそう言ったのか、心の中でそう叫んで心のシャッターをぴしゃっと下ろしたのか、覚えていない

 

母からもらいたかったのは、そんな返事じゃなかった

 

ものごころついてからずっと、私は食卓に向かい合って座った母の愚痴を聞き、母を心配してきた

母のカウンセラーだった

「そんなに嫌なら別れていいよ」と何度も言ったように思う

 

なのに、私が困った時や、父に叱られる時

母が、私を手助けしてくれたり、父の叱責からかばってくれた記憶がない

時には、父と一緒になって私を叱った、ように思う

 

実際は違ったのかもしれない

私の記憶が、間違っているのかもしれない

でも、私が子供のころずっと感じていたのは

 

ママはずるい 私はママが困ったとき話を聞いてあげているのに

私が困ったときに、ママは私を助けてくれない

 

だった

 

 

 

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母のこと

母は、とても美しい女性で、ミス函館にも選ばれたらしい

スタイルもよかった

 

子供の私に、いつも上等なかわいらしい洋服を着せてくれた

不思議なことに、当時来ていたワンピースやセーターなどの手触りを、今でもかなりはっきり思い出せる

ただ、紺やグレーが上品に見えるとかいって

私の服は、そんな色が多かった

ピンクや赤っぽいのは少なく、フリルやリボンがついたものも少なかった

 

女学校ではソフトボールのピッチャーで国体にも行き、下級生から人気があり

父と出会った職場でも花だったであろう母は、いつも優等生でいたかったのか

 

父の栄転で、長崎へ引っ越して、課長婦人としてがんばらなきゃと張り切ったあげくに躁うつ病になった、と父自筆の自伝冊子にある

私はまだ小学校3年くらいだったから、あまり記憶にない

 

母と父がひとつふとんで重なり合っているのを、自分の部屋との境のふすまを開けて、偶然みてしまったのは、この頃だった

ふたりと目が合った、記憶がある

何か言われた記憶は、ない

 

 

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転校生

うちは、父親の転勤で引っ越しが多かった

ほぼ3年ごとに、引っ越した

生まれたのは、東京は葛飾区、柴又の近くの亀有である

一軒家の社宅住まい

その一帯が道路になるので、神奈川県鶴見にある団地の社宅に引っ越した

ここで小学校にあがったけど、ほとんど記憶はない

 

その次は、長崎

今はもうなくなった夜行列車のさくらで、一家揃って赴任した

食堂車で朝ごはんに、初めて見たオートミールを頼んで、まずかった

慣れない味に気分が悪くなった

 

社宅のあった場所は、原爆の爆心地に近くて

8月9日の記念日になると、まだ小学生低学年の私でも、悲しみが空気に漂うのを感じた

仲良しの友達がいたかどうか、覚えていない

 

次は、広島へ

まるで、原爆投下地巡りだ

最初に住んだ社宅の庭に大きな桜の木があった

ここには短い間だけで、じきに広電でいくつか西へ行った井口の新築社宅に引っ越した

ただし、学校は最初のところが公立だけど程度が高くていい、ということで

広電で越境通学させられた

家に帰っても遊ぶ友達はいないから、小学校に最後まで残って遊んでいた

なぜ、いつまでも残っているのか、などと尋ねてくれる先生はいなかった

週末は、となりの社宅の同年代の男の子と遊んだ

ここで、10歳年の離れた妹が生まれた

 

小学校卒業と同時に、兵庫県の伊丹市に引っ越して、中学生になる

中2の時のクラスが、どういうわけか皆でものすごく仲良しだった

休みの日に、森林公園とかスケートリンクとか、あちこち皆で遊びに行った

定期試験の日の朝、仲良しの数人で早く登校して、試験勉強したりした

 

でも、楽しいことは続かなくて

中3の秋に、東京へ引っ越すことになった

もう一度言うけど、中3の秋 である

 

引っ越した先の中学で、秋から初めて受験勉強を始め

(兵庫は当時、兵庫県方式をとっていて、偏差値で行先がきまり、受験は必要なかった)

転校後まもなくあった修学旅行には行かず、家で英語のドリルをやった

友達らしい友達は、できなかった

 

そんなタイミングでの転校だったから

どちらの中学の卒業アルバムでも、私はほとんどもれている

 

家庭の中が、父親、母親、祖母の大人3人で、日常的にごたごたしているのに

3年ごとに、住む場所、住む家、学校と友達が変わるのは、今思えば過酷だった

だけど、そんな子供の私の心情をおもんばかってくれるような言葉を、かけられた記憶がない

いつの間にか、しらけた、冷めた子供になっていった

 

 

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怒った子供だった

大人になって行った専門学校の心理学の授業で

子供の心理についてがあって、母親と離れ離れになって、やっと再会できた時

子供の反応には3通りある、と

ひとつは、「お母さーん!」と呼びながら、母親に駆け寄って抱き着いて喜ぶ

ふたつめは・・・うーん、憶えてない・・駆け寄って、泣くんだったかな・・・?

みっつめは、何も言わずにそこに立ち尽くす、もしくは背を向けて歩き出す

 

クラスメイトがいっぱいいる授業中なのに、その場で泣きそうになった

私は3番目なのだ

みっつめの子供に、すねていじけた幼い自分が重なって、目頭が熱くなって、鼻の奥がツーンとした

 

母がいつもそばにいてくれないのが、寂しくて、悲しかったはずなのに

私はその悲しみじゃなく、怒りを出す子供だった

 

小学校にあがるかあがらないかの時

気に入らないことがあって、正座していた祖母の膝を、畳に寝転がった自分の足で思いっきり何度も何度も蹴飛ばして、よろけた祖母は柱のカドに頭を打ちつけて、切り、何針か縫った

 

デパートで欲しいモノを買ってもらえず、売り場の床に座り込んで、足をダンダンやって、泣きわめいた

 

中学の頃、親と言い合いになって、2階の踊り場から下にいる親に向かって

「私の友達は、本だけなんだからーっ!」と怒り狂って叫んだ

本か何か投げつけたかも

 

自分の周りにどんどん壁を築いていった

城塞から出る時は、鎧兜に身を固めて、自分を守った

 

その時は、そんなことしてるとは思いもしなかったが

今、振り返ると、それが見える

 

 

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母がそばにいない

幼稚園にあがる前の私の記憶に出てくるのは、母よりも祖母だ

 

おんぶされて散歩にいったのも

「しんびょうまてまて」と寝る前に、枕元でお話をしてくれたのも

私が近所の家にあがりこんで、ちゃぶ台に載ってたお漬物を食べたことを笑ったのも

母ではなく、祖母だった

 

母は近所の電気器具屋かどこかで、働いていたらしい

 

数年前に、思い立って父に「どうして初めての子供の私をおばあちゃんに任せて、ママは働きに出たの?」と尋ねた

返事は「家に、女手はふたつ必要なかったから

 

ハイカラな街、函館で、商いをする家に生まれて、乳母日傘で育ち、私立の女学校で人気者だった、美人でスタイルも抜群だった母

高知の片田舎で、貧乏ながら、料理もうまく、やりくり上手、着物も縫うし、何でもできた祖母

このふたりが、小さな社宅に同居すれば、そりゃ、母の出る幕はなかったであろう

 

難しい父の母である祖母は、さらに輪をかけて難しい人だった

 

赴任先の函館で恋仲になって、結婚、新婚旅行を兼ねて、転勤先の東京を目指して東北を南下してきた若夫婦を

「自分が先に家(社宅)に入って、嫁を迎える」と言い張って、実際そうしたらしい

 

祖母は私のことは、かわいがってくれたと思う

でも、母がそばにいない寂しさ、物足りなさは、いつもあった

 

その当時の記憶で、これもほんとうにあったのかどうかわからないが

ある晩、私を抱いた母が「○○ちゃん、ママと一緒に死ぬ?」と尋ねた記憶がある

私は、まだ返事などできない年齢だった

 

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