はりぼてタコのひとりごと

(旧)なめたらいかんぜよ!タコの毒吐きブログ

転校生

うちは、父親の転勤で引っ越しが多かった

ほぼ3年ごとに、引っ越した

生まれたのは、東京は葛飾区、柴又の近くの亀有である

一軒家の社宅住まい

その一帯が道路になるので、神奈川県鶴見にある団地の社宅に引っ越した

ここで小学校にあがったけど、ほとんど記憶はない

 

その次は、長崎

今はもうなくなった夜行列車のさくらで、一家揃って赴任した

食堂車で朝ごはんに、初めて見たオートミールを頼んで、まずかった

慣れない味に気分が悪くなった

 

社宅のあった場所は、原爆の爆心地に近くて

8月9日の記念日になると、まだ小学生低学年の私でも、悲しみが空気に漂うのを感じた

仲良しの友達がいたかどうか、覚えていない

 

次は、広島へ

まるで、原爆投下地巡りだ

最初に住んだ社宅の庭に大きな桜の木があった

ここには短い間だけで、じきに広電でいくつか西へ行った井口の新築社宅に引っ越した

ただし、学校は最初のところが公立だけど程度が高くていい、ということで

広電で越境通学させられた

家に帰っても遊ぶ友達はいないから、小学校に最後まで残って遊んでいた

なぜ、いつまでも残っているのか、などと尋ねてくれる先生はいなかった

週末は、となりの社宅の同年代の男の子と遊んだ

ここで、10歳年の離れた妹が生まれた

 

小学校卒業と同時に、兵庫県の伊丹市に引っ越して、中学生になる

中2の時のクラスが、どういうわけか皆でものすごく仲良しだった

休みの日に、森林公園とかスケートリンクとか、あちこち皆で遊びに行った

定期試験の日の朝、仲良しの数人で早く登校して、試験勉強したりした

 

でも、楽しいことは続かなくて

中3の秋に、東京へ引っ越すことになった

もう一度言うけど、中3の秋 である

 

引っ越した先の中学で、秋から初めて受験勉強を始め

(兵庫は当時、兵庫県方式をとっていて、偏差値で行先がきまり、受験は必要なかった)

転校後まもなくあった修学旅行には行かず、家で英語のドリルをやった

友達らしい友達は、できなかった

 

そんなタイミングでの転校だったから

どちらの中学の卒業アルバムでも、私はほとんどもれている

 

家庭の中が、父親、母親、祖母の大人3人で、日常的にごたごたしているのに

3年ごとに、住む場所、住む家、学校と友達が変わるのは、今思えば過酷だった

だけど、そんな子供の私の心情をおもんばかってくれるような言葉を、かけられた記憶がない

いつの間にか、しらけた、冷めた子供になっていった

 

 

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