はりぼてタコのひとりごと

(旧)なめたらいかんぜよ!タコの毒吐きブログ

大自然のなかで

55歳になる年の春、初めてひとりで、ワイオミング州にあるグランドティトン国立公園内のリゾートで、泊まりこみで夏の仕事をした

ロッジにあるギフトショップの店員として働いた

ちょっともめごともあったけど、ほぼすべてが楽しかった

 

何よりもよかったのは、大自然のなかで、ひとり、誰にも気兼ねすることなく、毎日行動できたことだ

限られた期間とはいえ、自分が働いた収入で、自分の暮らしを賄い、やりたいように、行きたい場所へ行く

車の保険代などは、オットが払ってくれていたから、100%とは言えないけれど、それでも、これまでの人生のどのステージよりも、お金も時間も考えも自由だった

 

自分で考えて、自分でやりたいことを決めることができ、自分の決めたように行動できる

ものすごい解放感だった

 

大自然が見せてくれるさまざまな場面は、いろいろなことを私に教えてくれ、いろんな感情を私にもたらした

 

空いっぱいに広がる、息をのむような美しい夕焼雲は、「絵のように美しい」のではなく、「絵画」がその大自然の美しさを、絵具と筆で再現しようとしただけ、と初めて実感した

 

車を運転していても、ラジオやCDを聞くことはめったになかった

その代わりに、窓を開けて、風の音、木々が揺れる音、鳥のさえずりを聞いた

 

鹿、エルク、ヘラジカ、そしてキツネや熊

出会うたびに、子供のようにワクワクし、驚かさないように息をひそめて、じっと見入った

小鹿や子熊など、子供が親に甘える様子、親が子供を気遣う様子を見ると、涙が出そうになった

これが、小さな頃、私がママにしたかったこと、ママからしてもらいたかったことだ、とわかった

 

大自然のなかにいると、私の心が少しずつ、だが、確実に癒されてゆく

 

気がつくと、ハイキングトレイルをひとりで歩きながら、私は小さな子供の自分に話しかけていた

 

「ほら、あそこに鹿さんがいるよ!」

「あ、ほんとだ、マミー!かわいいねぇ」

 

小さな私が、ニコニコしながら私に返事をした

うれしかった

 

 

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父の血 その7

海外に住むようになって、里帰りすることがあると

父は、私のスケジュールを勝手に仕切った

里帰りの飛行機代は、私が自分で払っているのに、私は自分のスケジュールを自分の好きなように組めない

 

滞在中の私の食事予定を、朝、昼、晩、毎日、勝手に決めた

朝食は父の家で○○を食べる

昼は、xxでラーメン

夜は、△△で鮨

という具合に、私が帰国する数週間前から、すでに事前に細かく決めて、メールしてくる

私の予定や都合を一切聞きもせずにだ

 

私にだって、会って食事をしたい友達がいて

ひとりで行きたい場所がある

 

ということが、まったく父の念頭にはない

それに文句を言うと、激昂する

 

前にも書いたが、父にとっての最大のもてなしは「旨いモノを食わせる」ということだ

確かに美味しいものは食べさせてくれた

本人も食べたいんだろうから、父にとっては一石二鳥だ

だが、行動の自由を奪われてまで食べる旨いモノは、私にとっては時に砂を嚙むようなものだった

 

いつまでたっても、こうして私の行動をコントロールしようとする父が、たまらなく嫌だった

あまりにも、息苦しい

 

こういうパターンの帰国が、いったい何度続いただろう

 

自分で宿泊場所を探して支払うほどの余裕は私にはなかった

帰国の際は、父のところか、近くに住む妹のところに泊まらせてもらっていた

帰国することそのものが、だんだん嫌になってきた

 

 

 

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母のこと -7 薬は要らなかった

精神病院って、ほんとうに必要なんだろうか?

母に限って言えば、母は精神病院に入院する必要はなかったと思う

 

精神病院または精神科の閉鎖病棟へ見舞いに行ったことがある人なんて、あんまりいないと思うけど、あそこは私にはものすごく怖いところだった

行くだけで、具合が悪くなりそうだった

軽い症状のひとが入院したら、間違いなく悪化するだろう

 

能面のように、真っ白で血の気のない無表情な顔で、じっと椅子に腰かける、中学生くらいの若い女の子がいた

なんで、こんなに若い子が、と思った

母のベッドがあった部屋には、少なくとも8人か10人の女性患者のベッドが並んでいて

窓際の一番奥のベッドで、横になった患者がマスターベーションしてるのがわかった

 

母は何度か入院したので、私は何度も見舞いに行った

食事の時間に行って、食べるのを見守ったり

お菓子やデザートか何かを買って行って、一緒に食べたかもしれない

薬のせいか、病気のせいか、母は多分あまり話さなかったと思う

 

精神科にかかって、投薬を受けると、その薬のせいで、ものすごく躁になったりした

そうなると、友達に電話をかけまくって、ペラペラペラペラ、長電話が止まらなくなった

薬によって、状態が変わる

まるで、薬の操り人形みたいに

 

母には薬は必要なかったと思う

母に必要だったのは、話ができる人、話を聞いてくれる人

母をほっとさせてくれる人

我慢せずに、やりたいことをやっていいんだよ、そんなにがんばらなくてもいいんだよと言ってくれるひと

だったんじゃないか

 

でも、いくら周りでいろいろ語り掛けても、本人の耳に入らないと、結局はなんにもならない

何も変わらない

 

母が何をそんなにかたくなに思い込んでいたのか

身体的には、健康なのに、魂が生きるのをあきらめてしまうほど

何をそんなに思い込んでいたのか

母をそこまで追い込んだ強い思い込みが何だったのか

 

母が亡くなって20年以上経った今も、私にはわからない

 

 

 

 

 

 

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続 阪神淡路大震災 

卓上コンロのガスボンベを載せたカートを引っ張りながら、JRの階段を上ったり下りたりして、乗り換え、乗り換え、川西の家に着いた

家で何をしたのか、今となってはぜんぜん覚えていないが、週末の一泊か二泊だから、たいしたことはできなかったはずだ

買い物に行って、鍋でも食べたんだと思う

 

はっきり覚えているのは、私が東京に帰る時だ

母とふたりで、最寄りの駅から能勢電鉄に乗り、阪急電車に乗り換える駅で降りて、駅近くの銭湯へ行った

震災以来、母は風呂に入っていなかったから、暖かい湯舟につかって、体や髪を洗えばさっぱりするだろうと思った

当時は、インターネットなんてまだなかったから、駅で降りて行き当たりばったりでみつけたんだろう

今あるようなスーパー銭湯じゃなくて、昔からあるような小さい地元の銭湯だった

でも、湯気が立ち上る、暖かいお風呂は、冷えた体にうれしかった

 

銭湯から出てきたら、雪がちらついていた

駅での別れ際に、「ありがとう」以外にも、母は何か私に言っただろうけど覚えていない

私を見る母の大きな瞳が、少し涙ぐんでいたような記憶がある

 

翌月の2月、私は前々から予定していた初めてのハワイ旅行に、会社の同期の子とふたりで行った

ハワイへ行くことを母に伝えると

「こんなに大勢の人が震災で苦労している時に、ハワイへ遊びに行くなんて」

と私に言った

 

「私がハワイ行きをキャンセルしたって、被災した人の助けにはならないから」

といって、私は予定通り旅に出た

 

母は、なにかにつけ、そういう人だった

 

 

 

 

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阪神淡路大震災

阪神淡路大震災が起こった時、すでに父は取締役をしていた水産会社から、関西のxx冷蔵という会社に左遷になって、母とふたり川西の新築一軒家に住んでいた

妹はすでに看護士になっていて、都心に部屋を借りて一人暮らししていたと思う

私は、市川の自宅マンションに住んで、日本橋まで通勤していた

 

1995年1月17日の朝、起きだして、まだぼーっとしながらリビングのテレビをつけた

画面に映る数字を見て、天気予報かと思って、もっとよく見ると

地震だった

しかも、関西

しかも、大きい!

 

多分、あわてて川西の家に電話したと思うが、その時はつながらならず

出社して、会社から掛けてやっとつながった記憶がある

家は、壁にわずかにヒビが入った程度で、大過なし

ただし、もちろん停電だ

 

勤めていた部署では、関西の顧客へも納品しているから、その日は一日中、仕事はてんやわんやだった

 

母は、その前からすでに躁鬱を発症していた

入院したのか、投薬だけだったのか、記憶にないけれど

震災後の非常事態は、母の精神状態にとっていいわけはなかった

停電に加えて、ガスもしばらくは使えず、よって風呂にも入れない

 

父は理屈だけは立派に述べ立てるが、いざ現実となるとからっきし実行力がなかった

状況を改善すべく、手を打つということをしない

 

そんな父の様子にしびれをきらした私は、関西地区では品切れになっているという

卓上コンロのガスボンベを数ダース買って、旅行用のカートに乗せ、土曜日の午後、川西へ向かった

飛行機で行こうと思ったが、ガスボンベは乗せられない、と言われ、新幹線にした

 

 

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自分がわからない

大人になってから、どうにも違和感を感じることがあった

 

例えば、友達と温泉に行く

服を脱いで、ロッカーにしまう

風呂場に行って、体を洗ったり、浴槽につかる

風呂から上がって、体を拭き、化粧品をつけたり、髪をドライヤーで乾かしたり

 

そういうなんてことない動きをする時に、ひとがどうするかがものすごく気になる

友達のすることにあわせている自分に気づく

友達はそれぞれ自分のやり方で、自分のペースで動いているのに

私には「自分のペース」というものがなかった

回りの動きが気になり、気持ちがざわざわして、落ち着かない

 

好きなものを選んでいい、というのが苦痛に感じることも多かった

どれが好きなのが、わからない

最初にこれかな、と思うものを疑うことが多かった

ひとりで洋服やバッグなどを選ぶのは、まだよかったが

誰かと一緒に食事に行った時など、他のひとが一緒の時に、自分の好きなモノを選ぼうとすると頭が真っ白になることがよくあった

ハッキリしないまま選んで、いざ食べる段になって、後悔することもよくあった

 

振り返れば、つきあった男性もそうだ

誰かが「好き」とか「素敵」と言うと、自分もすぐ好きになった

保証のような感じだ

このひとがいいな、と自分から思うのではなく

あの人がいいと思っているなら、いいに違いない、という感じだ

その結果、横取りしたこともある

もちろん、すぐダメになるんだけど

 

自分だけがいつも正しい父と、自分というものを持たないかのような母に、反抗しながら成長したのに

結局は、私自身、自分というものがわからなくなっていた

 

 

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父の血 その6

いつから父のことが嫌いになったのか、わからない

 

家の中で、正しいのは父ひとりだけだった

 

誕生日とかお出かけとか、楽しいはずの日は、必ずと言っていいほど

父の機嫌が悪くなることで、終わった

だから、楽しいはずの日も「最後はどうせパパの機嫌が悪くなるに違いない」と思うようになった

そして、予想通り、ほぼ毎回そうなった

楽しいはずの日を楽しみにしなくなった

どうせまた・・・と冷めた気持ちを持つようになった

 

外でご飯を食べれば、いつも母が同じものを注文する、といってバカにし

私が蕎麦屋で、うどんなんか注文しようものなら、「蕎麦屋でうどんなんて食うやつがあるかっ!」と頭ごなしに怒鳴られた

 

私が大人になり、父の日に妹とふたりで、父の日の花を注文したのに、どういう訳かその日に届かなかった

父は、花屋に電話して「注文通りに届かないとは、どういうことだっ!」とすごい剣幕で、電話の相手に怒鳴り散らした

 

私が年頃になってもなかなか嫁に行かないとなると

まずは、家族ぐるみでつきあっていた、その家の長男はどうかと言い出した

それがだめなら、また別の見合いの話を持ってきてが、乗り気でない私に向かって

「何が不満なんだ!」と文句をいう

 

私のことをいったい何だと思っていたんだろう?

大学に行かせ、一部上場の企業に勤めさせ、あとは嫁に行かせる

という「父の考える幸せ」という「路線」に私を乗せることは考えていても

「わたし」という娘が、どんな人間なのか、ということを、考えたことはあったんだろうか?

なかったように思う

 

会っても何も感じない人と結婚する気にはならなかったし

第一、尊敬どころか嫌っている父が持ってくる話だから、なおさら興味が持てなかった

 

そして何より、言い争いの絶えない家庭に育った私には、結婚に対するあこがれなんてこれっぽっちもなかった

 

ひとによっては、「だから自分は仲の良い家庭を」と考える人もいるようだが

私には、そんな意欲はまったくなかった

 

 

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