他人との距離感
ここでは、自分の中にたまったドロドロのヘドロを吐き出している
それとは別に、日々のあれこれを思いつくままに、別のところで書いている
そこにコメントが書かれると、時々、困ることがある
もちろん、嬉しい時もある
最近になって、毎日コメントを書く人ができた
私が毎日見に行くお気に入りのブロガーにコメントを書いている人で、そのつながりで私のブログも見に来てくれるようになった
ブログの中身を褒めてくれることもあり、「応援しています」と言われて、うれしい時もある
ただ、毎日、この人がコメントを残す、ことがブログを書く前から もうわかっている ことが、私にはちょっと重い
しかも、そのコメントで、私が書いた内容からさらに膨らませて、自分のことや気持ちをいろいろ書かれると・・・
そんなに書くことあるなら、自分でブログやれば?
と思ってしまう
このブログももうひとつも、これまで言わずにきたことを、抑えてきた気持ちを書くことで「解放する」あるいは「自分が思ってることを言う」ことで、自分を肯定する、自分の気持ちを認めてあげる・・・そんなつもりだ
ブログって、難しい時がある
ひとりごとでもあり、誰かに読んでほしくもあり、「その気持ちわかるわ~」と言ってもらえればうれしく、聞きたくないことを言われれば嫌な気持ちになる
ひとりでいるのは寂しくてつらい、話ができる相手が欲しい
でも、あまりずんずん近づかれると避けたくなる
他人との距離を縮めることに未だに抵抗がある
他人との距離感が、いまだによくわかっていない
他人との境界線の引き方が、いまだによくわからない
それが私だ
「皆そうだよ、誰だってそういうことあるよ」とひとくくりにされるのは、嫌いだ
私が、自分がどう思うのか、どう感じるのか、を大事にすることにしたんだから
今日、ここに書いたことは、もうひとつのブログには書けないから、ここがあってよかった
疎遠な関係
これまでの60年の間、30代半ばまでずっと実家で暮らし、母が亡くなった後、市川の自宅マンションを出て、新松戸で2年くらい一人暮らし、ハワイで部屋を借りてしばらくひとりで暮らし、そして、結婚して、オレゴンで暮らしてきた
私がひとりで暮らした部屋や、結婚して20年近く住んでいる当地を、父も妹も一度も訪れたことはない
ふたりとも、私がどんなところに住んでいるかとか、私の暮らしぶりには、まったく興味がないようだった
母が亡くなった後、天下りした会社を辞した父は、妹を連れて、国内や海外へひんぱんに一緒に旅をしていた
泊るところは、上高地の帝国ホテルや道後温泉の有名旅館、奈良の老舗旅館だとか、ハワイならいつもニューオータニカイマナビーチホテル、一流どころばかりだった
費用はすべて父持ちだったんだろう、と私は予想している
ハワイ、イタリアへ旅し、カナダにスキー旅行に行っても、私が住むオレゴンに足を伸ばそうという考えはなかったらしい
それでも一度、初めて、父と妹がオレゴンに来ると連絡してきたことがあった
どこへ案内しようか、我ながら意外なほどワクワクしながら、考え始めた矢先に妹が妊娠していることがわかり、計画は白紙に
それっきり、だ
父からオレゴンの家に電話がかかってくることは、ゼロ
まあ、かかってきても話したいことがあるわけではないから、それはかまわないが
手紙が来るときは、遺産相続の内容だとか、そういうことのみ
元気なうちは、メールが来ていたが、どれもあまり読みたい内容ではなかった
妹からの電話は、彼女が困ったことがある時だけかかってくる
それもここ数年は、まったくない
もちろん手紙や小包なんて来ないし、メールの返事すら、こっちが送ってから3日経たないと帰って来ない
これは今でもそうだ
父も妹も、私から連絡を取らなければ、ほとんど何もいってこない
うちでは、これが普通だ
ワイオミングで夏の仕事をした時、休みの日に時々一緒に出掛けた私より年上の夫婦が、毎日のように子供や孫と電話で話すのを見て、驚いた
まあ、この人たちはことさらまめに連絡する家族なんだろうが、ハワイに住む女友達も、カリフォルニアの姉妹と週に2,3回は電話やフェイスタイムをすると聞いて、へぇーと思った
世の中に「普通」というのはない、自分は自分でいい、と最近思うようになったが
それでも、この違いは大きいな、と思う
ずいぶん前だが、妹から電話で父の愚痴を聞かされた時、自分が言われたわけでもないのに、心臓がバクバクしてきたのには、驚いた
妹と私は、父のネガティブでねちっこいエネルギーにさらされることを「被爆する」といっていたが、まさにその通りだった
ネガティブな話をまた聞きするだけで、体に影響がでるなんて、まるでパブロフの犬だ
父の愛人、ヘルパーK
私は厚かましい人は、嫌いだ
誘われもしないのに、自分から「○○ちゃんの学芸会、私も一緒に見に行っちゃおうかしら~」などと言い出すヘルパーKは、最初から好感が持てなかった
里帰りの時に、何度か会う機会があった
父のヘルパーとして、茶飲み友達として、公私にわたってお世話になっているから、会えば型通りにお礼を言ったが、こっちからお土産を用意して行って渡したりはしなかった
お世話になっているんだから、そうするものかな、と頭で考えはしたが
自分からそうしたい、という気持ちはないし
日頃から、父が食事に連れ出したりしてるから、それでいいだろうと思っていた
ヘルパーKは、世田谷の一軒家に寝たきりのご主人と二人暮らしだった(ご主人は、去年、亡くなったと聞いた)
父と妹は、同じマンションの別の棟に住んでいた
そのマンションは妹が入居した時点で新築で、緑も多くセンスのいい設計だ
セキュリティもしっかりしていて、鍵がないとロビーにも入れない
ロビーには受付嬢がいて、その脇に、小さいけれど中庭を望む、解放感があって居心地のいいコーヒーラウンジがあった
コーヒーや紅茶、ペストリーなどを格安で販売していて、お茶や水は無料だ
父は、Kに合鍵を渡していたので、マンションに自由に出入りできる彼女は。そのコーヒーラウンジを利用できるのが、うれしいと言っていた
ちゃっかりしている
彼女の家は、一軒家といっても、世田谷区にある普通の家だ
豪邸じゃない
ガラス張りで、天井の高い、ホテルのロビーのような空間で、ゆっくりお茶が飲めるのは、非日常感があって、楽しいだろう
気持ちはわかる
里帰り中のある日、父の部屋で、妹と彼女の息子ふたりと一緒に食事をしていると、ピンポンもならず、突然ドアが開く音がした
私は不審に思ったが、ドアを開けて「こんにちは~」と入ってきたのは、ヘルパーKだった
彼女が来るとは聞かされていなかった私は、Kがずかずかと入ってくるのに、嫌な気がしたが、父は妹たちは、格別驚いた風でもなかった
今思えば、こういう状況は、彼らにとっては、すでに当たり前のことだったんだろう
別の里帰りの時には、私が妹のところへ行っている間に、やってきた彼女が父を散歩に連れ出し、家に戻って父がいないのに気づいた私は大騒ぎした
大騒ぎするには、理由があった
前日の早朝4時頃、父は鍵も持たずに、ひとりで家を出て、エレベーターにのり、鍵がないと開けられないガラスドアを抜けて、あわやもうひとつのこれも鍵がないと戻って来られないガラスドアからマンションの外に出そうになって、こっそり後をつけていた私を驚かせたところだった
その事情を聞いているのに、私がいない時に、書置きも残さず、父を連れ出したことに私は激怒して、私は、Kに鍵を返すようきつく言い渡した
だが、その時は、何度やってもキーホルダーから鍵が外せないといい、後から、妹のところに鍵を返しに来たとき、彼女が言ったことに私は、また怒り心頭に達した
「お姉さんが、鍵をアメリカに持って行ってしまうかもしれないから、合鍵を作っておいたのよ」
犯罪である
そんなことがあっても、父はもちろんKを責めることはなく
一時は、私同様に怒っていた妹も、「彼女のもたらす便利さ 」にあらがえず、またぞろ彼女のもとへ戻って行った
父にとっても、妹にとっても、便利で有難い存在であり、寝たきりの夫とふたり暮らしのKにとっては、格好の息抜きとなっているんだから、3人それぞれ持ちつ持たれつ、助かっているんだから、蚊帳の外の私が文句をいう筋合いはない
昨年の9月に父が亡くなった後、その後も妹とKのつきあいが続いているのかどうか、私は知らない
父の血 その9ー老いらくの恋
父の 老いらくの恋 は、私には、まあそれもいいか、と思えた
その頃には、物理的にも精神的にも感情的にも、父からずいぶん距離を置いていたせいだろう
恋のお相手、ヘルパーのKさんは、小太りで、大きな声で、おしゃべり好きな、ひと言で言えば、悪気のないおせっかいおばさんだ
父のところに、ヘルパーとして週に何度か来るようになって、まだたいしてたっていないのに、妹の次男の学芸会があると知ると
「わたしも一緒について行って、見に行っちゃおうかしら~」
などと、誘われもしないのに言った、と妹から聞いて、厚かましいひとだと思った
好感が持てなかった
父の名前をアップリケした敷物や、ランチョンマットなんかを幾つも手作りして、プレゼントするらしく
たまに里帰りすると、そういうものがテーブルの上や、洗面所の足元にあった
彼女は、父が東大出であるのを知ってか知らずか、
「○○さんは、頭がいいから、お話してて、とっても楽しいの」と満面の笑みで言う
ヘルパーKは、母とはまったく違う性格の持ち主だった
大きな声でどんどん仕切って、笑顔で押していく
そうされて、父もまんざらではないように、全部ではないが、そこそこ従っていく
そういう様子を見ると、母がこういうタイプだったら、ふたりの結婚生活はずいぶん違ったものになっただろうな、と思わされた
ヘルパーKには、ほぼ寝たきりのご主人がいた
ご主人の世話は、ヘルパーに任せて、自分は他の人のヘルパーをやっていた
そのほうが、精神衛生上いい、というようなことだった
それはわかる気がした
本来は、ヘルパーは自分が世話をする人と個人的な関係になってはいけないはずだ
が、双方とも、そんなことはおかまいなしだ
まだ元気で動けた父は、彼女を食事に連れて行ったり、花見に行ったりしていたようだ
ある時期から、彼女との関係を父自ら「不倫だ」などと言うので、かえっておかしかった
勤めていた会社の保養所へ、Kとふたりで泊まりがけで行くために、申し込み用紙の記入を妹に頼み(父は字が極端に下手である)、その下書きの同行者欄に書いた彼女のことを「妻」と書いて、妹を激怒させた
そんなこんなはあっても、世田谷に住んで日の浅い妹と父にとって、世田谷生まれ世田谷育ち、今も世田谷に住むヘルパーKは、いろいろな意味で、父妹にとって、役に立つ、ありがたい存在だったんだろう
父の血 その8
母が急死した後もしばらく、父は関西の冷蔵会社の役員を務めた
一部上場の水産会社からやってきたお飾りのようなもので、仕事らしい仕事もなかったらしい
母が亡くなり、そこを退職するまでの数か月の間に、父は派手な健康問題を起こした
ある日の夕方、帰りの通勤電車の中で、急に猛烈な鼻血が止まらなくなり、救急車で大阪駅近くの病院に搬送された
原因と病状が何だったのか、もう忘れてしまったが
知らせを受けて、私はすぐ大阪に駆け付けた
病院に父を見舞い、駅前のビジネスホテルに泊まった
その時に、鼠径部から器具をいれて処置をするステント、というのをやったはずだ
その手術の時は、私は病院には行かなかった
父は普段からいびきがひどかった
一緒の部屋で、よく母は眠れるもんだと思った
よって、入院中、相部屋の患者から、父のいびきがうるさくて眠れない、と苦情が出た
個室に移ってもらえないか、という病院からの打診に対する父の返事は
「何で俺が余分な金を払って、個室へ移る必要があるんだ」
「文句があるなら、そっちが移ればいいじゃないか」
だった
個室に移ったのか、そのまま相部屋でいびきをかき続けたのか、憶えていない
男やもめになり、猫とふたりで、一軒家に住む父を救ったのは、高知に住むおばだった
血液の難病に罹り、薬のせいでムーンフェイスになったりしたおばだったが、すでに退院して高知の自宅に戻っていた
料理が得意なおばは、煮物や刺身をクール宅急便で、川西に住む父に送り続けた
おばがいなかったら、カップラーメンでも食べたんだろうか
いつも思うが、父は不思議なことに、女運がよかったと思う
結婚したのが、どんな暴言を吐いても、自分のそばを離れない妻
その妻が亡くなった後も、いろんな女性が父の周りで世話を焼いた
まずは、上にも書いた高知に住むおばともうひとり伯母
長年の部下の奥さんは、料理上手で気配りもでき、父が東京に戻ってからは、折にふれて手料理を振るまったり、持たせたりしてくれた
このご夫婦が父の本性を見たために、さりげなく距離を置き始めると
今度は、ヘルパーの女性が現れた
厚かましいこのヘルパーの女性に、私は最初から好感が持てなかったが
父と彼女は、まるで高校生のカップルのように、親密になっていった
老いらくの恋 である
大自然のなかで
55歳になる年の春、初めてひとりで、ワイオミング州にあるグランドティトン国立公園内のリゾートで、泊まりこみで夏の仕事をした
ロッジにあるギフトショップの店員として働いた
ちょっともめごともあったけど、ほぼすべてが楽しかった
何よりもよかったのは、大自然のなかで、ひとり、誰にも気兼ねすることなく、毎日行動できたことだ
限られた期間とはいえ、自分が働いた収入で、自分の暮らしを賄い、やりたいように、行きたい場所へ行く
車の保険代などは、オットが払ってくれていたから、100%とは言えないけれど、それでも、これまでの人生のどのステージよりも、お金も時間も考えも自由だった
自分で考えて、自分でやりたいことを決めることができ、自分の決めたように行動できる
ものすごい解放感だった
大自然が見せてくれるさまざまな場面は、いろいろなことを私に教えてくれ、いろんな感情を私にもたらした
空いっぱいに広がる、息をのむような美しい夕焼雲は、「絵のように美しい」のではなく、「絵画」がその大自然の美しさを、絵具と筆で再現しようとしただけ、と初めて実感した
車を運転していても、ラジオやCDを聞くことはめったになかった
その代わりに、窓を開けて、風の音、木々が揺れる音、鳥のさえずりを聞いた
鹿、エルク、ヘラジカ、そしてキツネや熊
出会うたびに、子供のようにワクワクし、驚かさないように息をひそめて、じっと見入った
小鹿や子熊など、子供が親に甘える様子、親が子供を気遣う様子を見ると、涙が出そうになった
これが、小さな頃、私がママにしたかったこと、ママからしてもらいたかったことだ、とわかった
大自然のなかにいると、私の心が少しずつ、だが、確実に癒されてゆく
気がつくと、ハイキングトレイルをひとりで歩きながら、私は小さな子供の自分に話しかけていた
「ほら、あそこに鹿さんがいるよ!」
「あ、ほんとだ、マミー!かわいいねぇ」
小さな私が、ニコニコしながら私に返事をした
うれしかった
父の血 その7
海外に住むようになって、里帰りすることがあると
父は、私のスケジュールを勝手に仕切った
里帰りの飛行機代は、私が自分で払っているのに、私は自分のスケジュールを自分の好きなように組めない
滞在中の私の食事予定を、朝、昼、晩、毎日、勝手に決めた
朝食は父の家で○○を食べる
昼は、xxでラーメン
夜は、△△で鮨
という具合に、私が帰国する数週間前から、すでに事前に細かく決めて、メールしてくる
私の予定や都合を一切聞きもせずにだ
私にだって、会って食事をしたい友達がいて
ひとりで行きたい場所がある
ということが、まったく父の念頭にはない
それに文句を言うと、激昂する
前にも書いたが、父にとっての最大のもてなしは「旨いモノを食わせる」ということだ
確かに美味しいものは食べさせてくれた
本人も食べたいんだろうから、父にとっては一石二鳥だ
だが、行動の自由を奪われてまで食べる旨いモノは、私にとっては時に砂を嚙むようなものだった
いつまでたっても、こうして私の行動をコントロールしようとする父が、たまらなく嫌だった
あまりにも、息苦しい
こういうパターンの帰国が、いったい何度続いただろう
自分で宿泊場所を探して支払うほどの余裕は私にはなかった
帰国の際は、父のところか、近くに住む妹のところに泊まらせてもらっていた
帰国することそのものが、だんだん嫌になってきた