はりぼてタコのひとりごと

(旧)なめたらいかんぜよ!タコの毒吐きブログ

何のために生きているのか

中三の秋から、やおら始めた受験勉強で、なんとか新設の都立高校に受かり

そこでは、成績もそこそこよく

大学はなんとかひとつ引っ掛かって、私立の女子大の英文科に進んだ

授業にはちゃんと出たし、勉強もしたけれど

なぜそれを勉強しているのか

将来何になりたいのか、何をしたいのか

何も見えなかった

 

たいして勉強もせず受験した教員採用試験には、なぜか受かったが(父の知り合いの関係だったかもしれない)、教師になる気持ちにはなれなかった

働いてみたい会社もなく、どんな仕事をしたいのかもわからないので、聞いたことのある会社や父親の勧める会社の面接を受け、これも受かったのは一か所だったと思う

そこに勤めた

 

漠然と、いずれは結婚するものと思っていたが

結婚式やウェディングドレスへの夢は、どういう訳か、まったくなかった

結婚に対するあこがれもなければ、子供が欲しいという気持ちもなかった

 

仕事は楽しかったし、アフターファイブの接待や上司との飲み会もしょっちゅうあった

バブルの時代で、何軒もハシゴしたあげくに、タクシー券で帰宅するのが午前様も当たり前

その時その時は、それでよかったが

 

ふと、何のために生きているのか、わからない・・・と思うことが時々あった

まるで、深い霧の中にいるような、感覚

 

日々、目の前にある、やらなければいけないことはやっていたが

将来を夢見るとか、何かを考えてわくわくする・・・ということがほとんどなかった

 

ある意味、死んだように生きている、感じだった

 

外見だけで判断すれば、そんな風には見えなかっただろう

よほど勘の鋭い人か、よく私を観察しているんでなければ

 

でも、中身は死んでいるのに近かったように思う

 

というか、本来の自分、というものが、死んでいた

あるいは、かなり病んで弱っていた、のかもしれない

 

 

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シンデレラ・エクスプレス

いちばん身近な存在のはずの、母親とも父親とも、幼い頃から信頼関係が築けなかった

いつの頃からか、自分の周りに壁を作って、鎧兜を身に着けて、自分を守っていた

何かあれば、すぐ心のシャッターを下ろして、ひざを抱えて丸くなる

 

私の心は、どんどん固くなっていった

耕されなくなった土地のように

あまりにも硬くて、水も浸透せず、ただその上を流れていく

両親はもちろん、周囲のひとを意識的に遠ざける私には、周囲からの優しさや思いやりは、伝わってこなかった

あっても気づかなかった、気づけなかった

 

それなのに、私は異性に救いを求めようとしていた

 

初めて「好きになった」と思ったのは、広島の小学校の同級生

学級委員になるような頭のいい男の子だった

彼は、夢遊病だったそうで、夜中に歩き回っている時、線路に行ってしまい、列車に轢かれて、命は助かったが、片手を失った

 

中学校では、これまた片思いの男の子ができた

彼の家の近所まで行ってみたりした

バレンタインデーのチョコレートをあげたかもしれない

 

高校では、何人かの同級生と短い間つきあったけど、長続きはしなかった

家まで送ってもらったり、そんな程度

軟式テニス部の先輩で、長髪でちょっと不良っぽいひとがいて、なんとなく気になっていた

 

卒業して、大学生になってから、その先輩と付き合った

車を持っている人だったから、ドライブに行ったり、泊りがけで清里や西伊豆のペンションに行ったり、夜の多磨霊園の枝垂れ桜の下やショッピングセンターの屋外駐車場で、カーセックスした

セックスするためにつきあっていたような感じだった

 

その後、勤め始めてから、大学に在籍しててもいつ卒業するのか、どこに就職するのかわからないような先輩が嫌になって、別れ、何人かの人と付き合ったが、誰とも続かなかった

 

同じ会社の経理部にいた6歳年上の男性と、お互い惹かれ合っていたのはわかっていたが、お互い素直になれず、彼が他の部署にいた美人で有名な女性と結婚した後に、初めてつきあい始めた

いわゆる不倫だ

この人とは、体の相性がものすごくよくて、初めてセックスで感じる、ということを知った

あまりの気持ちのよさと心も体もつながった喜びに、涙があふれたのに、自分で驚いた

こんなに情熱的に人を愛したのは、後にも先にも、この時だけだ

今でも、ほんのたまにだが、この人とのセックスを思い出しながら、ひとりですることがあるほどだ

 

ただ、これも一目をはばかる不倫だったことが、さらに私たちを情熱的にさせたのかもしれない

私は、彼にとても嫌いなところがあった、性格的なことで

彼も同じだったようだ

しばらくして、関係は上手くゆかなくなり、私は一時仕事も手につかないほどに取り乱したが、結局は、別れた

 

不倫になった彼は少し別だったが、他はどの人も、好きになった というよりも

とにかく訳も分からず求めていた答えを、異性の中に見つけようとしていたように思う

 

ユーミンのシンデレラ・エクスプレスが流行っていた当時、私にはその歌詞の気持ちがまったく響いてこなくて、何も感じなかった

 

60も間近という年齢になって、その歌をまた聞き、やっとその気持ちが心にしみ込んできた

硬くなってしまった土に水がしみ込むようになるのに、こんなに長い時間がかかった 

 

 

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自分を大事にする その2

母は私に「自分を大事にするって、どういうことなのか、わからない」 

と言ったが

私も、自分を大事にするって、どういうことなのか、わかってなかった

 

よって、当然のことながら、今考えれば、自分をまったく大切にしない行動をとった

一番、顕著なのが、そして我ながら痛ましいのは、処女を喪失した時だ

 

大学生の時だったけど、正確にいくつだったのか、覚えていない

二十歳すぎていたか、いないか・・・だったと思う

 

相手は、伊丹の中学校時代の友達で、彼もたまたま父親の転勤で、東京に暮らしていた

どうやって、再度つながったのか記憶にないが

中学時代、頭が良くてカッコイイと、女子に人気のある子だったが、私は他に片思いしている男子がいたし

当時も、再会してからも、その子のことは、特にすごく好きというわけではなかった

 

飲みに行くようになり、特につきあっているという感じでもなかったのに、彼の下宿先で、初めてのセックスをした

その時、私は生理中だった

今思えば、ひどい話だ

そんな時に、初めての体験をすることにした自分も

そんな時に、あえてしたその子も、だ

 

当時、大学の同級生と初めてのセックスの話題が出ていて

そのせいで、私の中に、乗り遅れまいとの対抗意識でもあったんだろうか

 

その子とは、その後、何度か会ったけれど、すぐ別れた

 

昔見た映画の中で

 

心が寂しいと、体でその寂しさを満たすようになる

 

というセリフがあった

私は、まさにそんな感じだった と思う

 

体を重ねることで、その時は、寂しいことを忘れたかもしれないが

当然ながら、心の隙間は、そんな一時しのぎで埋まるものではなかった

 

 

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ブラックホール

最近になって、つくづく思う

母親が子供に与える影響は、大きい

ものすごく大きい

父親の比じゃない

 

世の中で、大きな仕事をする人は、ほぼ例外なく、母親を慕っている、愛している、感謝している

それを公言できる

ジェーン・グドオール女史も

RBG(ルースベイダーギンスバーグ)最高裁判事も

バラック・オバマ元大統領も

ミシェル・オバマも

カマラ・ハリスも

(バイデンもそうかもしれないけど、事故死した最初の奥さんと娘、若くして亡くなった長男のことが表にでるので、お母さんのことはあまり知らない)

 

違う言い方をすれば、母親からのポジティブなサポートなくしては、こういう人たちは存在しなかった、だろうと思う

そりゃぁ、この人たちだって、いろいろあったろう母親とも

でも、それは、人の成長過程にあって当たり前な、健康的なものだったんじゃないか

と想像するだけだが

 

機能不全な親のもと、機能不全な家庭に育つのは、これとは違う

親との、特に母親との関係が機能不全だと、そこから抜け出して、自分を取り戻すのに果てしない時間と精神力を要する

お金も時間も精神力も体力も、ものすごく消耗する

そのことに精いっぱい、手一杯だ

途中で、あきらめるひともいる

 

美しくても、ハンサムでも、頭が良くても、人から好かれても、そんなことは助けにならない

マリリン・モンローを見よ

三浦春馬を見よ

 

外からやってくる人気やファンは、心の闇を救えない

 

自分の心の中に、深い闇が巣食っているうちは

 

20代の後半に深く愛し合った恋人から、こう言われたことがある

「○○には、どこか深い闇みたいなものがある」

 

彼には、私がどんな家庭で育ったかは、話していなかったはずだ

が、感じたんだね、私の心に闇があることを

 

彼が言った通り、私の心には、深い深いブラックホール があった

 

でも、私は、その時はまだ、それをはっきりとは自覚できていなかった

 

 

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鮨の順番

戦争中に少年時代を過ごし、飛行機乗りになりたいと思い、食べるものも満足にないなか育った父は、食べることが好きだった

戦争中、カボチャばかり食べさせられたから、もうカボチャはいらんと言っていた

長崎、広島、伊丹と引っ越した先々で、お客があると当地の名物やら美味しいものを食べに行った

 

旨いものを食わせる」ことが、父にとっての最大のもてなしであり、愛情表現だったと思う

だが、大金をはたいて、喜ばせたいはずの相手の気持ちには、いっさいおかまいなし、というよりも、人の気持ちというものが、恐ろしいほどにわからない男だった

 

海外在住も長くなった頃、里帰りした時に「鮨を食いに行こう」という父と一緒に、気はすすまないながらも、築地のすしざんまいへ行った

カウンター席に並んで座り、運ばれてきた生ビールのジョッキを前に

「好きなものを頼めよ」と私に言い、父は慣れた様子でネタを板前さんに注文した

カウンターで鮨なんて、めったに行かない私は、どれから注文すればいいか迷いつつ

ちょっと緊張しながら、いくつか頼んだ

話もほとんどせず、注文しながら食べるうち、父が

そんな順番で食うもんじゃない」ときた

「え?どんな順番で食べるのよ?」と聞き返すと

そんなことは、俺に聞くもんじゃないっ

人が食うのをみてりゃわかるだろうっ」と私を叱りつける

 

カチーンと来たし、ムカついた

鮨屋のカウンターに座って、どういう順番でネタを注文するのかなんて、誰も教えてくれたことないし、だいたいそんなにしょっちゅうカウンターで鮨を食べることなんてない!

なんで、こんな嫌みなことを言われながら、この父親と並んで鮨をたべなきゃいけないのか、わからなかった

すでに、鮨の味なんてわからないほど、腹が立っていた

 

こんなこと言われながらご馳走してもらったって、美味しくもなければ、有難くもない

こんなんなら、自分で払って美味しく食べたほうがよっぽどましだ

父のおごりでふたりで鮨を食べに来るのは、これで最後にしようと決めた

 

 

私が怒りに震えるようにして、先に立って店を出ると

いつものように、父は私の機嫌を直そうとしてくる

「コーヒーを飲んでいこう」

私は行きたくなかった、が、言い始めるとこの男は後へは引きさがらない

下手をすると、公衆の面前で大声で叫びだしかねない人間だ

そんなのに巻き込まれたくない

氷のように固い表情のまま、ほとんど何も話さず、コーヒーを飲み、別れた

 

喫茶店で黙りこくった私に向かって、父は言った

「お前と俺は、ほんとうに合わないな」

 

合うわけがないと思った

 

 

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自分を大事にする

自分を大事にするって、どういうことなのか、わからない

 

これはある日、母が私に言ったことだ

 

3人の機能不全な大人に囲まれて、機能不全な家庭に育った私は、いつも答えを探し続けていた

自分の「問い」がなんなのかわからないまま、「答え」を探していた

加藤諦三の「愛されなかった時どう生きるか」など、自己啓発の本を読み漁った

「アメリカン・インディアンの教え」みたいな本も読んだ

でも、欲しい答えは見つからなかった

見つかったような気がしても、また次の壁にぶち当たった

 

母はそういう本は読んでいないようだった

「どうしてこういう本を読んでみないの?」と母に言ったこともある

 

本を読む代わりに、宗教に片足を突っ込んだこともあるようだった

クリスチャンの学校に通った割には、キリスト教には興味がないみたいだった

 

女子高時代、ソフトボールのピッチャーだった母は、スポーツが好きで得意だった

いっとき、父がゴルフクラブのセットを母に買ってやり、打ちっぱなしやゴルフ教室に通っていた時もあったらしい

が、ゴルフが上達し、嬉々としてのめりこんでゆく妻を、ほほえましく見守ることができるほど、父は鷹揚ではなかった

 

ゴルフが上手い母とそれほどでもない父が、一緒にコースを回れるようだったら

父は釣りや囲碁、母はゴルフや音楽鑑賞、などそれぞれ別々の趣味を持てるようだったら

父の顔色を伺うのではなく、母がもっとはっきりとモノをいう人であったら

 

ふたりの人生は、まったく違ったものになっただろう

 

当時の私は、なんとかうまく行くように、あれこれ考えたり、提案したりした

でも、本人がほんとうに望まない限り、そういう変化は訪れない

水飲み場に馬を引っ張って行くことはできても、水を飲むかどうかは馬次第だ

 

本人がその気にならない限り、どんなに回りがあれこれ心配しても無駄だ

 

と、ずいぶん経ってから、気づいた

 

 

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おばあちゃんっ子

私は、子供の頃から、自分はおばあちゃんっ子だと思っていた

 

ものごころついた頃から、そばにいたのは母ではなく、もっぱら祖母

幼稚園にあがる前に、朝目覚めた時に横に座っていたのは、祖母

私をおんぶして子守りしてくれたのも、祖母

寝る前にお話しをしてくれたのも、祖母

梅酒でかき氷を作ってくれたのも、祖母

手編みのセーターを作ってくれたり、ほどいて編みなおしてくれたのも、祖母

ゆかたを縫ってくれたのも、祖母

新聞に入ってきたチラシを見ながら「このページのどの服が好き?」って遊んだもの、祖母

エビオスや養命酒を飲んだり、せんぶりという薬草から煎じた苦いお茶を飲む姿を見たのも、祖母

門限に遅れて帰ってきた私のために、玄関の鍵を開けてくれたのも、祖母

 

だから、私は自分をおばあちゃんっ子だと思ってきた

よその人にも「おばあちゃんっ子だから、優しいのよね」なんて言われたこともある

 

もう50代になってから、父にそんな話をしたら

「おばあちゃんっ子だったのは、△△子(妹)のほうだろう」

と当たり前のように言われて、頭をガーンと殴られたような気がした

 

えっ?それじゃあ、私は誰の子なのよ?

ママっ子でも、パパっ子でもないよ

 

私は誰の子でもない、と言われたような気がして、絶望的に悲しくなった

 

 

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